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本気でなりたい
・大型犬飼って師匠と名付けたい師匠カムヒア、オーケーグッドボーイ
・将来は強い恐竜になりたいそしてかわいい化石になりたい
     「ひかりのような麦茶」工藤玲音
(『東北大短歌』第2号より)

 七夕の季節になると、短冊をぶらさげた笹をあちこちで見るようになる。どこかの保育園児のものだろう、「きりんになりたい」と書かれてあるのを見たことがあって、そうか、きりんは「なる」ものなんだなあ、と思ったことがある。将来、ということばがどのくらい先のことを想定しているのかわからないが、自分の生きた時間に比してうんと先、ということであれば、年を重ねればかさねるほど、遠くとおくを想像することができるのだろう。「かわいい化石になりたい」、というところまで思いを巡らせる眼差しに、生きてきた時間の厚みを感じる。これ、本気なんですね。わざと子どもっぽく言ってみせているわけではないんだと、それは一首目のほうもそうで、飼うものと師匠と呼ぶものってそうそう一致しないと思うのだけれど、そこを本気で望んでいる。で、その飼いはじめたあとの具体的な風景が、もう想定されているわけです。おそらくここで「名付けたい」とか「なりたい」とか言っている(思っている)のは人間だと思うのだが、後付けの時間や空間や秩序みたいなものとは無縁でいたい、というフラットな感覚。幸せになりたいという意志。愛したいという決意があるんじゃないかなあ、と。
 連作のなかには、ひとりの時間もあれば、「きみ」も登場する。しかしそれらの歌と、ここで挙げた2首がまったく同じ地平にあることに感銘を受けた。すごいなあ。
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〈の〉について――阿波野巧也を読んで
 先日機会があって「塔」(2014年7月号)を読んでいたら、ちょうど新人賞発表の号ということで、候補になった阿波野巧也の連作「ジオラマ」が載っていた(ちなみに阿波野は2015年に同賞を受賞している)。
 そこに丁度というかたまたまだが、最近追いかけていた〈の〉がたくさん(一連に3つも)あったので、ちょっと書いておきたい。

・エロ漫画はじめて買った夏の日の、感情のどこまでがぼくだろう?
・泣きぼくろみたいにひかる夕星(ゆうずつ)の、幼いころのぼくへの憎悪
・洗濯が終わってひりひりする指の、みんないいひとだと思いたい

 一首目の「エロ漫画」「感情」「ぼく」、いずれも阿波野のうたを話すのにもってこいのことばだが、ここでは〈の〉に注目する。この〈の〉はそのまま「感情」へかかっていくので文法的には連体格を表す用法である。いわばふつうの使い方だ。それだけなら〈の〉のあとの読点は不要である。
 しかしこの読点のひと呼吸によって、「ぼく」と同時に読者もまた、上の句の記憶をたどってみることになる。一種の足止めをくらう。〈の〉によって自然に流れていこうとする歌の動きはいったん待ったをかけられ、そしてそこから大胆に、下の句へ突入する。息継ぎの読点である。

 と、ここまで書いてもう一度歌を読み返してみると、どうだろう。この「感情」というのは何も、エロ漫画をはじめて買った夏の日の「あの」感情だけではない、ということに気付いてため息が出る。下の句のぼやきは、――「あの」感情もそうだったけれど、だいたいこの「感情」というものはどこまでがぼくのものなんだろう?――という、「感情」そのものと「ぼく」そのものに対する、もっと大きな問いかけだったのだ。

 では上の句は単なる例示か、というと、そうとも言い切れない。
 なにか先に「感情」があったとしよう。それに対してこの感情の、どこまでがぼくだろう? という問いかけが生まれた。そしてそれが「エロ漫画はじめて買った夏の日」を想起させたのではないか、というふうにも読める。
 あるいは、夏の日の、そこから「エロ漫画はじめて買った夏の日」の感情が思い出されて、あれも「ぼく」で、いまそれを思い出しているのも「ぼく」で……、という思考にはいっていったのかもしれない。

 ここまで書いてみてもまだ、一首のなかを「感情」と「ぼく」がぐるぐる巡っている。

     *

 二首目はさらに複雑な構造をとっている。〈夕星がひかるのをまるで泣きぼくろのように見ながら、幼いころのぼくへの憎悪を思い出している〉と読んでみる。もちろんこれで読めた気にはならない。が、それでも一首がすっと入ってくるのは、もしかすると〈の〉によるところが大きいんじゃないか、という期待がある。
 三首目は逆に一番シンプルな作りである。上の句と下の句が〈の〉によって接続され、それぞれが異なる景色を見せている。〈の〉が留め具になって、一首の柔軟な構造を支えている。これについては〈の〉に負担がかかっているという批評も考えられる。〈の〉のどこにそんなはたらきがあるのか? と言われたら返すことばを今のところは持っていない。それでもこの〈の〉について知りたいと思うのは、そんなに新しい用法ではないだろう、というところが気になっているからだ。

 機会を同じくして得た『風とマルス』(花山周子)や『X(イクス)―述解スル私』(岡井隆)にもこの〈の〉がたびたび出てくる。用法のこまかな違いはあるが、そこのところがむしろこの〈の〉の面白いところで、これからもさらに自在な〈の〉の用法が出てくるんじゃないかと思っている。一首のなかの情報量を増やそうとするとき、あるいは一首の中で詩的飛躍をとげようとするとき、この〈の〉がひとつ大きな役割をもちそうな気がしているのだ。
 たとえば20代から30代の歌集、あるいは同人誌などをみると、すぐに〈の〉の使用例が見つけられる。ではもっと前はどうか、というと、いま手元に資料がない状態で書いているのですぐには挙げられなくて残念だが、最新の『現代短歌』(10月号)に次のような歌がある。

・とこしへに解(と)けぬひとつの不可思議の生きてうごくと自(みづか)らをおもふ

 この号の特集「若山牧水生誕一三〇年」のなかに伊藤一彦選の牧水秀歌130首があるのだが、そのなかの一首である。〈の〉+読点の例ではないし、はじめに挙げた阿波野の3首とも用法は違う(と思っている)が、現在まで続く〈の〉の変遷の一旦を垣間見る気持ちがする。
 これだけで言うわけではないが、こんなところにも、〈の〉の源泉は割と遠いところにあるのだろう、と思う理由があるのだ。それでどこを起源とするのか、ということについても興味はあるのだが、むしろその用法を「どういうふうに拡大してきたのか」というところに、いま、一番の関心がある。

     *

 最後につけくわえて阿波野の話をする。
 はじめに、(一連に3つも)とわざわざ括弧書きでつけ加えたのには理由があって、どうも意識的に抑制してこの〈の〉を使っているのではないか、と思っているからである。このころはまだそうでもなかっただろうが、近頃の連作を見ると、(すべての連作についてチェックしているわけではないが)一つの連作のなかに〈の〉を用いた歌が複数あることはまずない。
 この「塔」(2014年7月号)には選考会の記録も載っていたのだが、その中で、この(一連に3つも)に相当する指摘がある。だから、というだけではないだろう、と思う。

  「ジオラマ」以後の〈の〉についても触れたかったが、それはまたいずれ。

(山下翔) 
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山階基と〈もの〉のうた
 手元にある『早稲田短歌』44号の連作の終わりに、山階基の「炎天の横顔」30首がある。新人賞候補作品をもとに改稿したとのこと。

・二回着て二回洗へばぼんやりとわがものになる夏服である

 新しく買った夏服だろうか、はじめはよそよそしい感じがあって、それがしだいになじんでいくところを詠っている。あるいは貰いものでもいいけれど、なんにせよ、こういう〈もの〉への視線に、山階基を感じる。「夏服である」という語り口もおもしろい。

・おろしたての傘にまつすぐ雨は降る朝から好きなもの食べられる
     「冬猫」『朝日新聞(2013.3.26/夕刊)』
・枕カバー外して洗ふ 知りえないところで僕が話題にあがる
     「革靴と花火」『早稲田短歌』43号
・なんにでも理由をつける取り込んだ洗濯物にまみれて眠る
     「寒い昼」『短歌(角川/2014.11)』

 「おろしたての傘」「枕カバー」「洗濯物」、いずれも冒頭のうたに通じるアイテムだが、これら三首はいずれも〈もの〉を通して自分を見ている。〈もの〉との距離感から自分をはかっている。それが一首の構造としてもはっきりしている。そこあたりが「夏服」のうたとは違っていて、〈もの〉だけで最後までうたいきるとき、「夏服である」という結句がうまれたのだろうか。すこし余裕のある、くすぐったい歌だ。

・友人は生きてゐるので数日を預けた留守のシャンプーが減る

 友人が生きていることを、〈もの〉を通して確認している。それをそのまま気づきの歌にしたのでは、ややオーバーな感じがしてついていけない。そうではなくて、「ので」とわたすことによって、この一首の雰囲気がえられたのだと思う。
 だいたい、生活のなかの〈もの〉というのはあまりになじみすぎていて、特別なことがないかぎり、なかなか意識されない。そのような、注目されない〈もの〉たちが、山階さんの歌にはよくでてくる。服や道具や建物や飲み物。それらとの距離がぐっと近い。このうたについて言えばすこし不安になるけれど、全体に〈もの〉への愛着っていうのかなあ、そういうものを感じる。

・記念すべきセックスは果てラーメンが食べたくなりぬ服を着て行く
     「氷なし」『早稲田短歌』42号
・目が覚めたあとに鳴るにはやかましい目覚まし時計いいやつなのに
     「夢のホテルに」『短歌研究』2014.11

(山下翔)
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「ぼく」が「ぼく」であることをめぐって―阿波野巧也と「ぼく」
 二ヶ月ほど前の記事で、阿波野巧也の『miniature』を読んだ。「そうだよな」「微熱」「はいつも遅れて」、というタイトルで文体や語彙の特徴をすこしだけ拾ったのだった。その際は敢えて触れなかったのだが、しかし見逃すことのできない阿波野作品の特徴、すなわち「ぼく」が「ぼく」であることをめぐる歌たちのことを、『羽根と根』創刊号にも触れながら取り上げたい。

・生まれ変わってめちゃカワガールになりたいな/ぼくが頬張ってるロリポップ

 『羽根と根』創刊号より、連作「モード」の冒頭の一首。「生まれ変わったら」ではなくて、「生まれ変わって」。「ぼく」が「ぼく」であることへの意識は、もうここまで来ている。
 もう少し前の作品からみていく。

・交差点をすくすく進むだれもかもぼくに見えてきて超いい感じ
・点滴がぼくの身体に混じりつつどこまでぼくでいられるだろう
・蛍光灯のひかりばかりを見てしまう 死ねばあなたになれるだろうか
・ぼくの手にiPhoneだけが明るくて自分の身体で歩いてゆける
・コミックを開けばそこにある街のどうしてもぼくなんだねぼくは

 『miniature #3』の連作「シティトライアル」から。2013年の5月ごろのものらしい。
 一首目、「だれもかも」(ふつうは「だれもかれも」あるいは「なにもかも」だと思っていたが……)が「ぼく」に見えてくるという把握から、「超いい感じ」と持ってくるやり方は、もはや阿波野の定番とも言える。ここでは「ぼく」とそれ以外のものとの融解するところを、すなわち「ぼく」が「ぼく」であることが甚だ不確かなところを、しかし「超いい感じ」と言っている。
 一方で二首目では、「ぼく」の身体の中に「ぼく」ではないものが入ってきて、そのせいで一体「ぼく」はどこまで「ぼく」なのかという疑問が生じている。それでいて三首目では、「ぼく」は「あなた」になれるだろうかと想像している。「ぼく」が「ぼく」でいることを辞め(てみ)たいという感情は、冒頭の「めちゃカワガールになりたい」へつながる。
 四首目、「ぼく」が「ぼく」であることを実感しながら、一方で五首目、どうしても「ぼく」は「ぼく」なんだと、なかば諦めのようなものが透けて見える。
 「交差点」「点滴」「蛍光灯」「iPhone」「コミック」というアイテムを持ち出しながら、その周りに「ぼく」が「ぼく」であることをめぐるいくつもの感情がからみあっている。

・皮脂でなぞった学習机のぎらぎらに気づいてこれもわたしだと知る
・わたしはほんとはわたしじゃなくて制服をたまに脱ぎ捨てたりもしている
・冬というふゆにわたしが解かれてゆくままに君よりも君になりたい
・Re:ぼくよりもぼくであるものはもはやぼくだよ。おやすみなさい。
・冬が終わると春がくるのは当たり前で当たり前にぼくはきみになりゆく

 『miniature #1』「ビュレットの海」30首より。制作時期は2012年の秋から冬にかけて、とのこと。一首目、「これもわたしだと知る」という結論はわかりすぎるが、これが先の「点滴」の歌へと続いているのだろう。二~四首目も決して良いとは言えない。例えば「解かれてゆく」「なりゆく」においては「ゆく」の不自然さが気になるし、「制服」「冬」という核が、十分に感情を引きつけるだけの力をもっているかと言えば不安が残る。けれども、「ぼく」が「ぼく」であることへの意識がここにもあることは、はっきりと認めることができる。
 もう一つ注意しておくならば、この連作では「ぼく」だけではなくて「わたし」も出てきている。『miniature #3』に代名詞にまつわるエピソードがあって、「ぼく」の他にも「俺」とか「わたし」について書かれてあるのだが、その意識についてもまた、このとき既に下地があって、長い間、「ぼく」と「わたし」が混ざりながら作品世界に「ぼく」がいるのだ。

・ぼくが街に同化していくような午後 踏切の鳴る音を聞いてた
・ぼくにはぼくのことはなんにもわからない メールの返事を打つ、消す、そして打つ
・ぼくはきみになれないということだけが何度も不在着信になる

 さらに制作時期の古い『miniature #2』「それでも町は」より。もうあれこれ繰り返さないが、ここまで『miniature』を通して読んでみて、#3「シティトライアル」の五首にある「交差点」「点滴」「蛍光灯」「iPhone」「コミック」といったアイテムの強さが改めて思われる。それは「ぼく」が「ぼく」であることをめぐって何かを述べるときに、そのためのアイテムとして効いている、ということはそうだけれども、単にそれだけではなくて、新しい歌語としての強さのような、それが、「ぼく」が「ぼく」であることをめぐる歌たちを作り続ける中で、獲得されていったのだと見える。(本題とは関係ないが、それ自体が歌になるわけではないけれども歌の核になって歌を手繰り寄せるような言葉、そしてそれはすぐに使えなくなるかもしれないが、だからこそ、そういう言葉を探り当てていく作業が要るんじゃないかと思っている。)

 さて、『miniature』についてはこのくらいにして、手元に『京大短歌』が二冊あるので、そちらもみてみる。

・街だって自然だし造花だって咲いてるよ。 どうしてぼくだけがぼくなのだろう
・雨の日の空間がぴたぴたしててほんとはぼくじゃないかもしれない
・ぼくにはぼくがまだ足りなくてターミナル駅に色とりどりの電飾

 一首目、19号「ワールドイズファイン」より。「ぼく」だけが「ぼく」であることへの素朴な戸惑い、といったところか。焦りではないし、苛立ちでもないし、単なる疑問とも違う気がする。
 二・三首目、20号「cube」より。二首目、雨の日の「空間がぴたぴた」しているという表現にしびれる。一首目では「ぼく」が「ぼく」であることに戸惑っているが、こちらでは、「ぼく」は「ぼく」じゃないんじゃないかと疑っている。それはその空間が「ぴたぴた」している表情を見せているように、「ぼく」だと思っているけれども実のところそれは「ぼく」ではない、完全に「ぼく」ではないとまでは言わないにしても、少なくとも「ぼく」の思うところの「ぼく」は、思っているところにおける「ぼく」に過ぎないのではないか、という疑いだ。
 三首目、「ぼく」に「ぼく」が足りない、とはどういうことだろうか。「ぼく」である時点でそれが「ぼく」であるはずなのに、まるで「本当の」「ぼく」はこんなんじゃない、とでも言いたげだ。どこかに本当の「ぼく」があってそれを探しにいこう、という流行りのテンションではなくて、例えば「ぼく」の「ぴたぴた」した一面を見ようとしている。前田康子は一首鑑賞『日々のクオリア』(2014/04/14)で、この歌に「自分の存在の揺らぎのようなもの」を見たうえで、「上の句は口語でさらっと表しているが、とりとめのないアイデンティティの揺らぎがあり切なさを感じた。下句の電飾の輝きがさらに足りない自分を強調させる。」と評している。

 冒頭の一首に戻る。
 ここでの「ぼく」もまた「ぼく」を思っている。「めちゃカワガール」と「ロリポップ」が核にあって、その二つの核がスラッシュを隔てて二つの「ぼく」を引き寄せている。いつか、ではなく、今からでもめちゃカワガールになりたい「ぼく」と、もちろんそんなことはかなわずロリポップを頬張っている「ぼく」。生活のところどころに「ぼく」と「ぼく」の隔たりがあって、そのことが「ぼく」が「ぼく」であることを疑わせる。「ぼく」の中にはあらゆる「ぼく」があって、それがときどき顔を出して「ぼく」を困惑させる。
 谷川俊太郎は「あなたの手のぬくみ」に「いのち」を見出し、川崎洋は、その「手」に「そっと息を吹きかける」ことで「ウソではないこと」を確かめたが、「ぼく」が「ぼく」であることをめぐる思索は、これからもまだまだ続いていくのだろう。
 最後に「cube」と「モード」より、「ぼく」という言葉が入っていない歌を一首ずつ挙げて終わりにする。

・音楽にあふれて歩む鴨川の、ようやく気持ちが追いついてくる
・お金もらってうれしい真昼 バファリンでお酒を飲む 風景が体になじむ

(山下翔)
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あの夏
 今週の「あるきだす言葉たち」は、小島なおの「神輿」10首。2冊の歌集を経て、歌の雰囲気もずいぶん変わった。コスモスの風土もあるのだろう。

・近づいてくる近づいてくる神輿はるかなるあの夏の性愛
     小島なお『朝日新聞(2014.06.17夕刊)』

 初句7音かと思いきや、きっちり定型。2つの「くる」が分断されることによって、ぐんぐん迫って「くる」神輿の感じが出ている。「定型」の力学と「意味」の力学のせめぎ合いが効いている。
 はるかなる、と言えば、次の歌を思い出す。

・はるかなる遊牧民のはるかなる歴史を思う人は孤独なり
     小島なお『乱反射』

 第1歌集『乱反射』の中では格式高い歌だ。みずみずしいサラダだけではなくて、きちんとメインディッシュもあるぞ、という雰囲気を滲ませている。そして結句の性愛、これも同歌集の次の歌を想起する。

・噴水に乱反射する光あり性愛をまだ知らないわたし
     小島なお『乱反射』

 いづれも平成16年に第50回角川短歌賞を受賞した、「乱反射」50首中の作品だったように思う。もうこの段階から自分の近いところにあった語彙が、どんどん熟成していっているように見える。

 はじめの歌に戻る。「近づいてくる」のは、ひとつには「あの夏」の記憶なのだが、そこには<私>に「近づいてくる」<あなた>がいる。あるいは<私>の中から湧き上がってきて表層へ「近づいてくる」「性愛」がある。
 それら「近づいてくる」ものの記憶や感触が、「神輿」から引き出されている。神輿の神聖さ、その動きのぎこちなさ、熱量がそのまま「あの夏」につながるのだ。

 そんな「あの夏」と「呼ぶべき夏」が皆にある、と歌ったのは母、小島ゆかり。短歌日記という形で綴られた歌集『純白光』中にその1首がある。「喉うごかして」に視線がいく。「あの夏」が、まざまざとたちあがる。

・あの夏と呼ぶべき夏が皆にあり喉うごかして氷みづ飲む
     小島ゆかり『純白光』

(山下翔)

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