日々の活動、メンバーの文章など。
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ためらいも、衒いもあって(中山俊一 第一歌集『水銀飛行』)
 新鋭短歌シリーズも第3期に突入し、中山俊一歌集『水銀飛行』はシリーズ29冊目ということになる。

・七の段くちずさむとき七七の匂いに満ちる雨の土曜日
・息継ぎのように今年も現れて夏の君しか僕は知らない
・ひとたまりもない夏の笑みこの先が西瓜の汁のように不安さ

 ねっとりと濃い話題を、アイディアと語彙で力強くうたっていく。
 しちしちしじゅうく、という「九九」の呪文から雨の土曜日を導く一首目。七七の匂い(のなか)に雨の土曜日を感じるのか、雨の土曜日が七七の匂いに(で)満ちるのか、そのどちらもだろう。たっぷりと字数を使ってアイディアに説得力をもたせている。君はどういう人だろうか、息継ぎのように、という比喩からいろいろ想像してみる。息継ぎは短い、くりかえす、やらないとつらい。ひょこっと顔を出して夏だけ会える人、という単純な感じではないことがわかる。七と雨、息継ぎと夏、夏と西瓜、縁語のようなことばづかいが、しかしそのままは結びつかない。不安になるくらい、歌が胸にくる。

・カンバスに描かれてぼくの体重はカンバスきみが持ち帰るとき
・ふたりして海に降る雨を眺めてた水溶性の傘をひらいて
・うけいれるかたちはすべてなだらかに夏美のバイオリンの顎あて
・癖になる季節の遠さ ふときみがスノードームを逆さまにして
・海水と花火の接吻 ジュッ きみの寝言の語尾も守れないのか
・ももいろのゼリーに桃が透けていた健やかな人と云われたい夏

 さっき力強いと書いたけれど、これはためらいのなさ、衒いのなさかもしれない。絵にかかれた僕の体重はカンバスの重さ、という把握。「水溶性の傘」、ってそれじゃあ濡れてしまう。きみ=夏美なのか、いきなり名前が明かされる。(もちろ違ったっていい。)「癖になる季節の遠さ」、これもフレーズの強さ。五首目、「接吻」まで言うかなあ、と思いながら、一首のペースに巻き込まれてしまう。「寝言の語尾」なんて考えもしなかった。と思えば、六首目のような、手放しと言ってもいいような歌が入ってくる。
 一首のつくりも、連作の構成も、歌集としての推進力も兼ね備えている。ためらいも、衒いもあって、それでもポーズをとっているのだ。
(山下翔)
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笹井宏之 第三歌集『八月のフルート奏者』
 笹井宏之は俵万智の影響を受けた歌人である。直接、俵の作品を読んだのかはわからないし、<俵が短歌に与えた影響>あるいは<俵が短歌に受けた影響>に影響を受けたのかもしれない。それはともかく、歌の<構造>と<対象>において、すなわち<どう詠むか>と<何を詠むか>において、俵との類似が多く見られる。
 『八月のフルート奏者』(以下、[笹井3])は笹井の第三歌集で、佐賀新聞に投稿された395首が収められている。
 ・あつさりと缶コーヒーを選びたる手がそこはかとなく俵万智
という歌があるが、次が意識にあるのかもしれない。
 ・渡されし缶コーヒーは生ぬるくあなたをかばうように飲みほす [俵2]
 笹井の俵との類似は[笹井1][笹井2]によく表れているのだが、それがこの[笹井3]にもにじみ出ている。

 特に初期の頃、[俵1][俵2]において、俵は同じ<構造>の歌をいくつも詠っている。歌集の作り方としてこの2冊は似ているのだが、ひらかれ方を見れば[俵1]はむしろ[俵3]につながっていく。さて、『短歌の友人』で穂村弘も言及しているのだが、同じ<構造>の歌を配置することには、「圧縮パターン」を読者に浸透させ、受け取りやすくするという効果がある。穂村は結句、句またがり「いる/体言」の型を例示しているが、それも含めて[笹井3]からいくつか引く。

 ・廃品のなかでひときはたくましく空を見上げてゐる扇風機
 ・外部こそ全てであるといふことの玉葱を剝きつつ泣くものか
 ・パチスロの明かりが夜の水田を覆ふ 綺麗と思つてしまふ
 ・散る銀杏散らない銀杏それぞれの並木を縫いしエンジンの音
 ・らいおんのあくびのやうに盛大にあなたのことを好きだと言はう

 俵の作品と比較してみる。

 ・かたむいてばかりいるから寄りかかる人をなくしている夜のバス [俵2]
 ・さよならに向かって朝がくることの涙の味でオムレツを焼く [俵1]
 ・「スペインに行こうよ」風の坂道を駆けながら言う行こうと思う [俵1]
 ・はなび花火そこに光を見る人と闇を見る人いて並びおり [俵2]
 ・ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう [俵1]

 一首目、「〜している(体言)」という型。[俵3]以降ではどんどん減って、「〜してゆく(体言)」がちらほらあるくらいになった。「いる」と「ゆく」の違いは大きい。ここでは<□□を□□□てゐる□□□□□>というタイプをあげた。二首目、上句を「〜ことの」で止める型。この不自然とも言える接続に一度立ち止まる。抽象と具体のバランス。三首目、動詞の終止形で2つのパーツに切れる型。直接「思ふ」を使うための呼吸法か。その特殊性と主語の変化への配慮だろう、笹井の歌は一字空けてある。四首目、“それぞれ”を並列する型。俵には2つを対照的に置いたり、いくつかを並列させたりする対句表現が多い。五首目、上句で比喩、下句で自分への呼びかけという型。「盛大に」と言ってしまうのはどうか。

 ・想うとは夏の動詞か汗と汗の間(あわい)にいよよ強くなりたる
 ・味付きの海苔が好きとか嫌いとかそんな話の出来る食卓
 ・午後きみはひかりのかごを編んでをり 居残りをするわれの傍ら
 ・はつなつのたまごサンドを飲み込んで広葉樹林に佇むふたり
 ・風の尾を摑みそこねてしまふのは私が風であるからだらう

 俵には、次のような作品がある。

 ・誰を待つ何を吾は待つ<待つ>という言葉すくっと自動詞になる [俵1]
 ・なんでもない会話なんでもない笑顔なんでもないからふるさとが好き [俵1]
 ・窓際の一番うしろの席にいて夢の羊を編みためており [俵2]
 ・砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている [俵1]
 ・ぶらんこにうす青き風見ておりぬ風と呼ばねば見えぬ何かを [俵3]

 一首目、動詞に着目した歌。漢字、言葉、英単語に着目した歌がいくつかある。命名したり、言葉をひらいたりもする。二首目、ふるさとのなんでもなさ。ふるさとや家族、身の回りのことを詠ったものが多い。三首目、ぼんやりとしている。他者への眼差しがある。四首目、たまごサンドの歌。2人でどこかにいる、という状況にたまごサンドがある。俵が角川短歌賞を受賞したとき、卵サンドを歌にするような人はいなかったという。今ではすっかりおなじみのアイテムになった。五首目、風は見えないという歌。何かが動いたり音を立てたりしたとき、あぁそこに風が吹いたのだとわかる。これもすっかり定着してしまった。目に見えないもの、流れとしてあるものとして風が登場する。

 ここでは俵との比較で[笹井3]を眺めたが、他にもいろんなものを取り込んでいる。俵以外の短歌はもちろん、歌や音楽や他の詩からも。だから口語も文語も、旧かなも新かなも、ここでは言及しなかった修辞もとりこんだ。しかし、取り込んでさらに自分ならではへ、というところまではたどりついていないように見える。構造はそのまま呼吸につながる。対象はそれだけでイメージをもっている。ただ安心して読めるだけなのだ。
 そういった中で、取り込んだものが自分ならではへ転移するとき、次のような歌が生まれる。

 ・君でなければならなかったのだろうか国道に横たわる子猫の背
 ・冬ばつてん「浜辺の唄」ば吹くけんね ばあちやんいつもうたひよつたろ
 ・眠りから覚めても此処がうつつだといふのは少し待て鷺がゐる
 ・葉桜を愛でゆく母がほんのりと少女を生きるひとときがある
 ・千切れつつ増えゆく雲を眺めをり 人に生まれてからといふもの

(山下翔)


各歌集を以下のように略記した。

[笹井1]第一歌集『ひとさらい』、書肆侃侃房、2011
[笹井2]第二歌集『てんとろり』、書肆侃侃房、2011
[笹井3]第三歌集『八月のフルート奏者』、書肆侃侃房、2013

[俵1]第一歌集『サラダ記念日』、河出書房新社、1987
[俵2]第二歌集『かぜのてのひら』、河出書房新社、19991
[俵3]第三歌集『チョコレート革命』、河出書房新社、1997
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木下龍也 第一歌集『つむじ風、ここにあります』
 短歌を読むときの反応としていくつかある。無関心、否定、共感、驚き、理解不能、拒否という具合に層が積み重なっている。時にはいり乱れている。その中でも、<共感の層>の中の上から<驚きの層>の中の下の領域、そこを意識してつくられた歌が、この歌集にはたくさんある。いわゆる「何気ない日常」をそのままは切り取らず、かといって過剰に「ぼかし」たりしない。

 ・主人待つ自転車たちのサドルから黄色い肉が飛び出している
 ・カレンダーめくり忘れていたぼくが二秒で終わらせる五・六月
 ・少年がわけもわからず受け取ったティッシュが銃じゃなくてよかった
 ・飛び降りて死ねない鳥があの窓と決めて速度を上げてゆく午後
 ・救急車の形に濡れてない場所を雨は素早く塗り消してゆく

 生々しいことがそのまま美しさになるわけではない。しかし過剰に「ぼかし」てしまうのは一種の逃避だ。責任逃れだし、思わせぶりだし、建前としては「一般論への昇華」とか「歌の余白」になるんだが、それは単に自信と覚悟がないことの表れでしかない。確かに、自然とぼやかされた状態でうまれることもあるだろう。想像の余地というのも大事だ。また、自信をもって把握できることがそんなにはないことも事実だ。それでも一歩踏み込む、この歌集のような「潔さ」やその形跡が、歌になるかならないかの1つのポイントになるのだ。

 ・鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい
 ・さっきまで騒いでたのにトイレでは他人みたいな会釈をされる
 ・一枚の布だとしたら引っ張ってこちらを雨にしたいような日
 ・タイヤから冬の空気がすこしずつ春へと溶けてゆく音がする
 ・かなしみはすべて僕らが引き受ける桜の花は上に散らない

 見えないものを見ることで、掴めないものを認識することで、世界は一層広くなる。

 ・つむじ風、ここにあります 菓子パンの袋がそっと教えてくれる
 ・一本の道をゆくとき風は割れ僕の背中で元に戻った
 ・風に背を向けて煙草に火をつける僕の身体はたまに役立つ
 ・空を買うついでに海も買いました水平線は手に入らない

 そしてそれが、ゆるやかに社会と接する、1つの方法なのかもしれない。

 ・じっとしているのではない全方位から押されてて動けないのだ
 ・B型の不足を叫ぶ青年が血のいれものとして僕を見る

(山下翔)
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堀合昇平 第一歌集『提案前夜』
 全体に毒がある。予防接種のような毒だ。あとがきに「たった三十一文字の定型ですら思うように扱えない自分を目の当たりにする」とあるが、そういう自覚ゆえの、繊細に編まれた歌集であり、全317首を一つながりに読める大連作である。

 ・こころざし無き者は去れと枯らす喉みないなくなりそうで水無月
 ・泥臭いとこ突いていこうよ「ちゃん」付けで呼ばれればなお引き立つ弱さ
 ・結び目をほどけば匂い立つ汗を見果てぬ明日の手がかりとする
 ・スパイシーチキンにしゃぶりつくまでの葛藤 帰り道は長くて
 ・褒められて育つタイプと新人が挨拶をする きらきらきらら

 善意や希望や明るさだけでは詩になり得ないことを知っている。けれども、歌を読んだ人が、現実の両面性にうちのめされるだけでは意味がない。希望の光を見せるのではなく、内側から抗体をつくってゆく。そういうささやかな、しかし痛みに満ちた優しさがある。

 ・劣化したアイドルみたいな顔のまま新品まみれの街をゆこうか
 ・雑居ビルの二階の窓を埋めている「空室アリ!」のビックリマーク
 ・労働の意味突き詰める友のいていまだ仕事を得たとは聞かず
 ・リニューアルオープンの旗ひらめかす店の名前に見覚えはなく
 ・だめだだめだもっと胸元に来なければ駄目だと諭すティッシュ配りに

 優しさは悔しさの裏返しだ。悔しさが行き場を失くしたとき、眉をいじったり、ゴミを拾ったり、傘を差さずに街を歩いたりする。街を通して自分のことが見えてくる。そういうことの繰り返しだ、日々は。いろんな世界を行き来して、<こっちの世界>の難しいことを<あっちの世界>で考えて、また引き戻す。そうすることで、なんとか上手くやっていけるのだ。

 ・「ナイス提案!」「ナイス提案!」うす闇に叫ぶわたしを妻が揺さぶる
 ・譲れない思いなどではないことに議論の最中気づくのでした
 ・敗北も勝利も拒む僕がいて校舎の裏でシメなきゃ駄目だ
 ・苛立ちをなだめる為の象(かたち)かなサンドウィッチのフィルムを剝がす

 何をやっていいのかわからずに、だから何もしないのではなくて。それでも歩く。それで、ぶつかる、巻き込まれる、飛ばされる、つまづく。だからまた、歩ける。

 ・靴ひもを整えてまた歩きだす嘔吐の跡のつづく街路へ

(山下翔)
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岸原さや 第一歌集『声、あるいは音のような』
 普段生活している場所はいろいろな様相が入り混じっている。天気も感情も、自然も人工物も、人間もその他の動物も。その中に過していれば、自ずとその差異や混じり具合を感じることもあるだろう。それを冷静につかみとることができる時期もある。しかし何かの拍子にその視野はたとえば自然に偏ったり、感情に偏ったり、人間のつくるものに偏ったりする。それらもまた一つの様相である。それらを作者の、その時々の、バランスのいい、あるいは偏った視野から掴み取った284首が収められている。

 ・かなしみがかなしくなくてくるしみもくるしくなくて熱だけのある
 ・浅瀬から浅瀬へ渡る風の舟、うつむいて水、あおむいて空
 ・羽をもつひとと静かな声をもつひとが出会える街路樹だった

 ただそこに在るだけの自然を、そのまま切り取る、ということは案外難しい。その時々の自分の状態によって偏って見えるからだ。むしろ偏るということが見えるということと言ってもいいかもしれない。しかし時々、それは言葉のある種の力かもしれないが、在る景色そのものをそのまま切り出したような歌がある。

 ・ひゅほろう鳶は高みに舞いあがり朝餉をもとめ浜の風切る
 ・ウイスキー樽の眠りをふかぶかとつつむ貯蔵庫みたいだ秋は
 ・夕映えの雲はながれず刻々と魚(うお)の背色(せいろ)に染まりゆく空

 言葉にはイメージや概念や、それから文化や風土や宗教観が混じっている。それゆえ投げ出した言葉が、全く違う意味をもって相手に届く、ということも往々にしてある。だから言葉を選んだり、共通の枠組みを作ったりして、そういう行き違いのようなものが極力起こらないように工夫するのだ。
 しかし時に、ある共通認識のもとに様々なことが解釈されてゆく、そういう流れや雰囲気ができることがある。共通の苦しみや悲しみの中にあるときだ。

 ・僕たちは生きる、わらう、たべる、ねむる、へんにあかるい共同墓地で

 そんな時、自然とその眼は人工物に到る。人工物の無機質で無気力な冷たさにぬくもりやささやかさやもがきを加えようという意識が働く。共通認識という大きな流れに抗うようで、むしろ大きな流れに支えられてそういう視野が開かれる。

 ・どこまでも走った日々の思い出をいだいてねむる放置自転車
 ・えらぶことえらべないこと蛇口から出る温水をうける手のひら

 そしてやっぱりそれらの視線は再び自分へと返ってゆく。こういう現象を反射と言うのだろう。  

 ・今日眠るふとんあります明日食べるパンもあります祈りのゆびも

 布団があること、パンがあることが大事なのではない。眠ることができるということ、食べることができるということ、そういうことがどれほど自分の身体を支え、作り、そのおかげで日々の生活があったかに意識が向く。

 ・陽ざらしの鉄路に立てる夏草が六分おきにあびる烈風
 ・ほんとうは苦しかったと言えばいい野菜室には乾いた葱が

 そして大きな流れの中に自己を確かめ、また混沌とした世界の中へ帰ってゆくのだ。

(山下翔)
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