日々の活動、メンバーの文章など。
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鯨井可菜子 第一歌集『タンジブル』
短歌というものが何なのか、丁寧に知ろうとし、探ろうとし、突き放され、励まされ。言葉にはどんなことができて、どんなことができないのか。なぜ言葉にしなければならないのか、それは言葉にしてもよいことなのか。そういう自問自答の航海へ、錨をあげて「ほぼ四年」。その中で見つけた答えのようなもの、大切に携えているもの、誰かへのお土産、そんな333首が編まれている。

・ランドセルにかろき光の洋々と港区立の学校へゆけ

言葉が文化をつくり、文化が風土をつくる。そしてその風土の中にあって言葉は生まれ、育ってゆく。文化は現象であり、風土は体質であり空気感であり、思考、考え方、根底を流れるものである。その螺旋階段を登るような営みを思うとき、少しだけ下ってみたくなる光がある。それは湖面のまぶしさかもしれない、あるいは雲のひしめきあいかもしれない。

・お別れの茶会のあとのガレットの屑やわらかに春雨の降る
・春雨にフードぬらしてぬばたまの路面にかぎわける沈丁花
・ぬばたまの夜道をゆけば菜の花のサラダが冷える春のコンビニ
・ひさかたの雲のすきまにやわらかくアクアラインの途切れておりぬ
・帰ってきた君とひねもす歩きたしなんきんはぜの色づく川辺

短歌が言葉で書かれるということ、そして短いけれども歌であること、そういうことへ実直に向き合った姿勢や時間が、目の前に鮮やかに再現される優しさ。そして遅れてやってくる不安定さや違和感、あるいは問題意識、切なさ、果てしなさ、揺らぎ。作者の歌に言葉を借りれば、それらが「うすむらさき」の「清き」「祈り」のように静かに押し寄せる。

・試されることの多くて冬の街 月よりうすいチョコレート噛む
・薄命に空港のベンチ長すぎてサンドイッチを自動的に噛む
・はつなつのランチタイムのタイ料理 空芯菜を清く噛む友
・かみそりの刃を取り替えてこの星のあまたの辻に吹く清き風
・2Hは祈りのごとし葉脈を描くあなたの指をみていた
・朝食のバターナイフは簡潔な祈りのごとき往復を成す

あらゆるものが、その意図しないところで、役割や意味を背負う運命にある。それは言葉の持つ力でもあろう。しかし一方で、それは氷山の一角のような見え方をもたらす。だからこうやって、その力を慎重にときほぐすことは、実感や実態を掴もうとするあまり失ってしまった、原形を取り戻す作業でもあるのだ。

・スーパーの寿司のまぐろはひとつずつ白くきれいなものに張り付く
・デジカメを出してほほえむ人がいて二本の指が応えておりぬ
・窓になる前のひと日よ 麗らかに街を運ばれゆくガラス板
・ウェイターの盆傾きて光あふれ きょう世界中で割れる皿よ
・屈すればデスクの下のくらやみにくつずれありてバンドエイド貼る

言葉にできないこともある。それでも私は進むのだと。「魔女の宅急便」のキャッチコピーに「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」がある。

・観覧車の上に金星 きょう君が言い出せなかったことのいくつか

向かい風に立ち向かうような強さではない。燦燦とふる陽に光る汗のような明るさではない。紫陽花の横をスキップした時の、わずかに落ちる、水滴の透明さとでも言えようか。

・母にありてわたくしに無きたくさんのたとえばレジを打つ昼下がり

(山下翔)
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第2回(2013年度)
5月26日(日)10:00~12:00で歌会をやりました。
詠草11首、参加者5名。

題詠「白」1首、自由詠1首。

白を「何か色をつけくわえるもの」と見た歌が多かったように思います。
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熟れざる林檎
・掌のうへに熟れざる林檎投げ上げてまた掌にもどす木漏れ日のなか
     山田航『さよならバグ・チルドレン』

 熟れていないけれども、「熟れざる」と言うことで、僕たちはいつか熟れるであろう林檎、あるいは、もう熟れてしまった林檎をありありと思い浮かべることができる。まだ瑞々しくてはりのある林檎も、そのうち熟れてしまう。

・悲しみは一つの果実てのひらの上に熟れつつ手渡しもせず
     寺山修司『少年歌集・麦藁帽子』

 掌のうえで熟れていく林檎のように、ずっと掌の上に置いて手渡せずにいる林檎のように。自分の中でゆっくりと時間をかけて消化していかねばならないのだろう、悲しみなどは。

・青林檎与へしことを唯一の積極として別れ来にけり
     河野裕子『森のやうに獣のやうに』

 こちらは熟れても青いままの青林檎。それを投げ上げるでもなく、掌の上に置いたままにするでもなく、あなたへ与えた。それだけを唯一の積極として。悲しみだろうか。

・ほがらかに林檎は冬をつれて来るみちのくの人の詰めたる箱に
     鯨井萩穂『星座(2013.4)』

 たくさんの林檎が生産者の手を離れて、どこの誰に届くかもわからない箱に詰められ、やって来る。その林檎が、ほがらかに冬をつれて来るという。悲しみでもやりきれなさでも怒りでも未熟さでもなく。
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さくらさくら(三)
・甘い甘いデニッシュパンを死ぬ朝も丘にのぼってたべるのでしょう
     穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

 バターの甘みが何層にも重ねられたデニッシュ。積み上がる、積み重なるものの先に「デニッシュパン」があり、「死ぬ朝」があり、「丘」がある。死ぬ朝を予感して、それでも食べてしまうデニッシュパン、「丘」であり、「死ぬ朝」である。

・夏よ夏よ鳳仙花ちらし走りゆく人力車夫にしばしかがやけ
     北原白秋『桐の花』

 人力車夫の疾走感のそばに鳳仙花がある。夏のうだるような暑さだろうか、しかしそこにひと時の爽やかさがある。赤く赤く夏の太陽はじりじりと、鳳仙花の花は鮮やかに、「夏よ夏よ」、「しばしかがやけ」。その一瞬への呼びかけが鮮明に浮かぶ。

・むかしむかしこどもが花の中にいたはなしがあって水仙ひらく
     鈴木加成太『阪大短歌(2号)「砂の時計とオルゴール」』

 水洗の匂いは実に生々しい。生き物の素朴な匂いがする。けれども鼻を近づけてみないと強くは感じられない。それとこどものイメージがぴったり合う。「むかしむかし」によって御伽噺感が生まれ、生々しさというよりは、もっといわさきちひろ感が漂ってくる。

・おまへもおまへも皆殺してやると思ふとき鳥居のやうな夕暮れが来る
     藪内亮輔『短歌(角川/2012.11)「花と雨」』

 誰でも彼でもかまわない、みんな殺してやる。何であなたが死んでゆくのに、お前が生きているのか。いや、お前らが生きているのに、何であなたは死んでゆくのか。うっすらとのびゆく夕暮れ。「おまへもおまへも」とくぐった所に何を見ただろうか。
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第1回(2013年度)
5月11日(土)10:00~12:00で歌会をやりました。
詠草9首、参加者3名。

題詠「石」1首、自由詠1首。

石を「遊び」や「思い出」の中に見た歌、あるいは「神聖なもの」として見た歌がありました。
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二人でいて
・はなび花火そこに光を見る人と闇を見る人いて並びおり
     俵万智『かぜのてのひら』

 まだ少し早いが、夏と言えば花火の季節である。ばーん、ばーんと、次々に花火があがっては咲き、消えてゆく様子が浮かんでくる。そこには確かに花火があるのだが、そこに光を見ている人と、一方で闇を見ている人をとらえている。

・果樹園に風をむすんでいるひとと風をほどいているひとの声
     笹井宏之『えーえんとくちから』

 風を結んだりほどいたりするとはどういうことだろうか。風がやんだり吹いたりすることだろうか。しかし、結んだりほどいたりしているのは「ひと」である。風のいろんな形をつくってはくずし、ということをやっているのだろうか。

・さみしいといわないさくらさみしいといわないけやき 光のなかで
     佐藤晶『冬の秒針』

 今度はどちらも「さみしいといわない」桜と欅。日本の花と言えば桜だし、欅だって多くの「市の木」や「県の木」に指定されているメジャーな木である。そんな光の中にあって、さみしいとは言わないけれど。

・ストーヴの中に炎を上げてゐる燃え盛る火と燃え尽きる火が
     香川ヒサ『短歌(角川/2013.05)「火」』

 ストーヴの中を見れば炎がある。しかしよくよく見れば、単に「炎」というものがぽん、とあるわけではない。今まさに燃え盛るものもあれば、力尽きて消えようとするものもある。言われてみればそうであるし、何でもないことのようなのだけれど。
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分け入つても分け入つても
・責任ある地位の男と呼び出して詰め寄っても詰め寄っても支店長
     斉藤斎藤『渡辺のわたし』

 種田山頭火の句「分け入つても分け入ついても青い山」を思い出す。出口の見えない、どこまでも続く感じがある。

・人間いたるところ青山ありわけいつてもわけいつても私の茂み
     森下理紗『岡大短歌(創刊号)「Softly, as in a Morning Sunrise」』

 自分の中に「茂み」を見ている。どんな茂みだろうか、背の丈ほどの草原だろうか、雑木林だろうか、ジャングルだろうか。「私の」中に「茂み」がある、それをかきわけながら答えにたどり着きたい、それがなかなかうまくいかない。

・かまきりと共に歩めり雨の夜 咳をしても一人と一匹
     澤田恵理子『阪大短歌(2号)「二十歳」』

 今度は尾崎放哉の句「咳をしても一人」が入っている。「咳をしても一人」のもの同士が一緒に歩いているという一体感だろうか。「共に」歩いているとは言い難き、しかしそれを、「共に」と言いたくなることがある。お前ならわかってくれそうな気がするんだ、「かまきり」よ。
 
 尾崎の「咳をしても一人」に答えた人がいた。種田山頭火に「鴉啼いてわたしも一人」とある。こちらは「かまきり」ではなく「鴉」に呼びかけている。
 どこかに帰る場所があること、信じてくれる誰かがいること、それだけで人は強くなれる。だから普段は孤独で十分だし、孤独でいい。そうしないと何にも見えてこないだろうよ。

・くろがねの錆びたる舌が垂れている鬼はいつでも一人である
     山崎方代『こんなもんじゃ』
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今、まさに出てゆく(二)
・看板の付けられている杉だけが記念写真の背景になる
     久保田千尋『阪大短歌(2号)「屋久島旅行」』

 これだけ杉があって、どれも屋久杉なのに。お墨付きをもらった杉だけが表舞台で輝いている。あるいは、お墨付きをもらったがために良いように使われている。いやいや、記念写真の背景になり続けたからお墨付きをもらったのだろうか。世の中で話題になる、目立つ、一歩先を歩く、勇気が必要で、責任が伴い、不安もある。それだけで価値がある。

・他界という世界はいつの日も晴れてそこから来たというような雲
     鈴木加成太『阪大短歌(2号)「雪の音階」』

 高いところはいつも晴れている。だって、雲の上だから。その高いところに「他界という世界」があるのだろうか、あるいは、「いつの日も晴れて」いるその高いところを「他界」と呼ぶのだろうか。われわれの住んでいるところには雨も降れば、嵐もくる。そういう世界とは別の世界から、高い高いところからやって来たのだろうか、この雲は。

・上陸の苦は忘れたがみずかきが切れてあのとき泣いただろうか
     池松果実『阪大短歌(2号)「発生」』

 社会は激動、なんてしない。いつも気づかないほどゆっくり、ゆるやかに変化していく。だからたいていのことは忘れられていく。どんなに悲惨な事件でも、災害でも、歴史の一項目として引っかき傷くらいはつけるだろうが。だから時々思い出そうとする。苦しかっただろうか、悲しかっただろうか、つらかっただろうか、泣いただろうか。

・本当の自分はここにいないのだ「玉ねぎってさ、どこまでが皮?」
     澤田恵理子『阪大短歌(2号)「二十歳」』

 社会とはどうしても切り離せない自分。だからゆるやかにつながっていく方法を思索していく。それを時々<自分探し>と言ったりもするが、「本当の自分」なんてどこにもいない。自分の内側へ、丁寧に問いをたてていくしか、今、まさに出てゆく社会で、うまくいったりしないだろうよ。
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今、まさに出てゆく
・六月のやさしい幹よここに今ふくらんでいく胸を見ていて
     狩野悠佳子『早稲田短歌42号「くじらの前歯」』

 若い幹の頼りなさだろうか、古い幹の壊れやすさだろうか。あるいは硬直しきったそそりたつ幹であろうか。しなやかでなめらかな質感の幹だろうか。「やさしい幹」だという。胸を見ている、その眼差しにはやさしさ以外のあらゆるものが詰まっていて、今まさに溢れ出そうとしている。

・トンネルを抜けたみたいにあかるくてプレイリストはゼロ年代へ
     安田直彦『早稲田短歌42号「ひかり2013」』

 長いトンネルだろうか。ずっと暗い時間が続いていて、まだかまだかと出口を待っている。そして少しずつあかりが見え始め、トンネルを抜けるとわっと光が降ってくる。まぶしいような、ほっとするような。そんな気分になるような、ゼロ年代の音楽。音楽はあれこれ思い出させる。明るく前向きだった、ひたむきでがくむしゃらだった、あの頃のことを。

・社会へ出るのでなく入るワイシャツを飛び出したがつてゐるやうな肩
     山階基『早稲田短歌42号「氷なし」』

 「社会へ出る」という言い方をする。これまでのぬくぬくとした環境から、自分できりひらき、生き抜く世界へ出ていく、という巣立ちのニュアンスがあるのだろう。そうではなくて、「社会へ」「入る」のだと。そういう気持ちで社会と向き合うとき、その肩は、ワイシャツを飛び出しそうな、そんな勢いを持っているのだろう。

・何が悪いってわけじゃないけど たたん、たん 電車は揺れるし人は傷つく
     中村みなみ『早稲田短歌42号「たくさんの他人」』

 まぁ、仕方のないことなんていくらでもある。(仕方ない、っていう言葉は難しいですね。失言になったりします。)「たたん、たん」という響きは、着地へ向かって低くのびていく。ガタン、ゴトンはもっと遠くへ向かって高く響いていく。気にすることでもないが、「電車は揺れるし人は傷つく」。
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