日々の活動、メンバーの文章など。
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あるいは
・あるいは鳥になりたいのかもしれなくて夜をはためくテーブルクロス
     笹井宏之『えーえんとくちから』

 ひょっとしたら鳥になりたいのかもしれない。夜をはためくテーブルクロスの、そのはたはたとする様に、そういう気持ちを抱いている。このまま飛んでいきたい、のは、テーブルクロスではなく、作者自身なのかもしれないが。「あるいは」は副詞で、「ある事態が起こる可能性があるさま」を表す。

・ちかくよりあるいはとおくよりわれを呼ぶ声水木の下に立つ父
     小島なお

 近くからか、一方で、遠くからか、自分を呼ぶ声がしている。そしてそちらの方を見やれば、水木の下に立つ父がいる。すぐ側にいるような、もう二度と会えないような。「あるいは」は副詞で、「同類の事柄を列挙していろいろな場合のあること」を表す。
 

・カーテンをしぼりて朝の海を見む担保なき融資かあるいは吾は
     岡井隆『夢と同じもの』

 カーテンを開いて、そしてしぼって、朝の海を見てみよう。ひょっとしたら自分自身というのは、担保なき融資のようなものかもしれない。すなわち何ができるとか、失敗したらどうだとか、そういう保証はできないけれども、それでもやらなければならないことだらけである、し、やるのである。

・なんという日々の小ささ抱擁をあるいは生の限界として
     内山晶太『窓、その他』

 許せることの、あるいは、自分にできることの、誰かにしてやれることの、いかに小さいことか。そのいっぱいいっぱいの、ぎりぎりのところとして抱擁をする。いざというとき、どうにもできない歯がゆさがある。もどかしさとも言えようか、精一杯の抱擁である。
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さかなのように
・窓のそとは冷たい冬だ 自習室はさかなのように自習している
     阿波野巧也『miniature #1「ビュレットの海」』

 どんなさかなだろうか、やさしいひらがなのさかなである。しかしそこには、同時に、暗い冬の流れに打たれながらのぼりゆく、したたかな魚の姿が浮かび上がる。流れに身を任せず、時に鱗を落としながら。諦めず、身をよじり、自習室が自習するのだ。

・淀川がゆっくり海になってゆく 重力を持つからここにいる
     〃

 河口はだんだん広がり、やがて海になってゆく。ゆるやかに混ざりつつ、どこからが海かは確かでないが。その時間的あるいは空間的な動きの中で、ここにとどまらせる一つの重力。やり様のない理由付けでもあり、だからこそうまれる普遍性として。

・わたしはほんとはわたしじゃなくて制服をたまに脱ぎ捨てたりもしている
     〃

 「ほんとうの自分探し」が昔から流行っている。たとえばヘミングウェイの『陽はまた昇る』でも、旅へ出たって仕方がないと言っている。環境や相手に応じて仮面をかえる、その総体としての自分であるのに、どの仮面も本当の自分ではないと思いたくなるのだろう。それでたまに、制服を投げ捨てる。

・地に触れて死んでしまうね自動車のライトの中を落ちてゆく雨
     〃

 おそらく雨は、あんなに高いところからやってきて、地面にものすごい勢いで激突する。しかし雨は、地面に触れただけで死んでしまう。そのためだけに降ってくる。自動車のライトは、その死ぬ寸前の、志とも呼べるだろうか、そういうものを、そのいくつもの志をうつしだす。
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けふもさみだれ
・あなたからきたるはがきのかきだしの「雨ですね」さう、けふもさみだれ
     松平修文『水村』

 文語調から口語調への鮮やか、かつ、滑らかな転調。梅雨の時期だからこんなことをやっても不自然ではない。葉書を書いたときの「雨ですね」が届いた時にもリアルタイムで迫ってくる。

・やや遠く熱源(ねつげん)(あ)るる家内(いへぬち)の、いまさらどうしやうもないさ、さみだれ
     岡井隆『五重奏のヴィオラ』

 家の中で何やら熱源が生まれているらしい。些細ないさかいだろうか、はたまた何かに夢中になっているのだろうか。いずれにせよ今更どうしようもない、生まれてしまったものは。外では五月雨が降っているのだけれども、お前にどうこうできることでもないだろうし。
 
・弾丸のごとく降るべしNIPPONを蜂の巣にしてくれよ、さみだれ
     高島裕『旧制度(アンシャン・レジーム)』

 今度は弾丸のように降れ、と、さみだれに言っている。降るべきだ、と。そうして「NIPPONを蜂の巣にしてくれ」と言っている。蜂の社会は通常メスがその中心を担う。働き蜂もメスである。あるいは、使えなくなった女王蜂は働き蜂によって巣の外に捨てられる。

・さみだれて昏き家内(やぬち)に百年の木の香ただよふ さらに睡らな
     高島裕『饕餮の家』

 五月雨の中、家の中は暗い。みんなして殻に閉じこもるような、そんな空間になる。しかし単に暗い、というよりは、おだやかな明るさがそこにはある。上2首を受けて、また異なるさみだれの雰囲気を掴んでいる。
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子育てと父(二)
・素麺に胡瓜の車輪 夏過ぎてわずかなれども子の背丈伸ぶ
     佐々木幸綱

 一緒に過ごしていると、子のささいな変化を見逃してしまうことがある。見逃すというよりも、気にせず過ごしてしまう、という感じだろうか。「子の背丈伸ぶ」という眼差しがあたたかい。「胡瓜の車輪」で、どんどん成長しそうな予感。

・子は蒔けりジャックの種子を われはもう見守りもせぬはつなつの部屋
     坂井修一

 教育の半分は育、だまって見守ること、しっかり待つことも大事だと言う。しかしここでは、「見守りもせぬ」とある。<ジャックと豆の木>をおもっているのだろう、親の知らないところで子はどんどん育つ。見守りもしない、その構えに父を感じる。

・おそれなく辞書を踏台にして遊ぶ幼ならよもの書くわがかたはらに
     木俣修『落葉の章』

 辞書をそういうものだとまだわかっていない幼ならが、それを踏み台にして遊んでいる。何でも使えそうなものは、こちらが決めた<本来の用途>とは違うやり方で活用するのが子どもである。子どもの目の前にあっては、何もかもが新しい。

・おつぱいをお腹いつぱいのみをへてぷはーとわれを見下す目をす
     本多稜『游子』

 幼い子どもにとって、母は自分だけのものである。母乳を飲めるのもその特権の一つ。どうだと言わんばかりの目をして、満足そうな子ども。見下されたっていいような、それほどにかわいい時期が誰にでもあるのだろう。
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風と呼ばねば(二)
・原型をもたない風が袖口をそっと揺らしてここよ、と過ぎる
     上本彩加『岡大短歌(創刊号)「風が吹く」』

 風と呼ばねば姿にならない<風>を「原型をもたない」と言っている。それが「ここよ」と「袖口を」「揺らして」通り「過ぎる」のだ。星の王子様で「目に見えないものが一番大事」というようなことを言っていたが、それとは違った<見えなさ>があるように思える。

・風という名前をつけてあげました それから彼を見ないのですが
     笹井宏之『ひとさらい』

 こんどは「風という名前」をつけることによって、風を掬い上げていく。そしてその風というものはその時限りで、同じ風なんて二度と吹きっこない。せっかくつかまえた<風>なのに。

・目に見える風と見えないその風を映画は描き分け長かりき
     大森静佳『てのひらを燃やす』

 いわゆる風、というものの他にも「風流」「洋風」「風潮」「時風」といったものがある。もちろん実際の風も目に見えるわけではないが、何かが動くことによってみえたり、感じられたりするものだ。

・鱗状のさざなみのうへするすると白蛇のはしるほどの雪風
     春日井建

 鱗状のさざなみとは「風力1」における海面の状態を表す言葉である。煙がたなびく程度の風である。しかしそこにはひゅーひゅーと吹く冬の冷たい風が浮かびあがる。目でとらえた風は、するすると向こうの方へはしっていった。
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噴水が
・噴水が輝きながら立ち上がる見よ天を指す光の束を
     佐々木幸綱

 厳粛な卒業式の起立のような、噴水の立ち上がる様が浮かぶ。湧き上がるでも浮き立つでもなく、立ち上がる。そこには一度しゃがんだ後の反動、そこからくる力強さがある。この力強さが結束し、天を指すのだ。

・噴水に乱反射する光あり性愛をまだ知らないわたし
     小島なお『乱反射』

 噴水を見ているのだが、そしてそこから、乱反射する光のほうへ意識が移る。さらにそこから「性愛をまだ知らないわたし」へ意識は動く。ぎらぎらと、あるいは、てらてらと、擬音や擬態で知っていても、実態までは知らない性愛への眼差しがある。

・からっぽを容れてわたしは歩くのだ光の棘を吐く噴水へ
     大森静佳『京大短歌(19号)』

 これから何でも受け入れようと、そうやって歩きだしたわたし。しかし優しく見えるものが優しいとは限らない。反対に、恐ろしく、近づきがたく感じていても、温かく柔らかいものもある。力強さの中に、まだ見ぬものへの不安がちらつく。 

・噴水に腰かけ授乳をしてゐたる女はみづのつばさをまとふ
     山田航『中部短歌(2011年3月)』

 噴水を取り囲むように椅子がある。あるいは座れるようなスペースになっている。噴水を背景に授乳する母の姿は、母というよりは女であり、放物線を描いてのぼっては落下する様は、あたかも翼のようである。どこへでもいけそうな、あるいは女神のような。
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黄色い線の内側
・黄色い線の内側に下がる人類よみな俺知らずしあわせになれ
     斉藤斎藤『渡辺のわたし』

 子どもの頃、黄色い線の内側に下がっていないと、何か大変なことが起こるようなきがしていた。少なくともある程度重要なことだという認識があった。それが大人になればたいしたことないように思われる。

・バラバラになった男は昨日まで黄色い線の内側にいた
     木下龍也『つむじ風、ここにあります』

 黄色い線というのは越えてはいけない一線であり、けれども誰でも越えられる一線である。越えようと思えば越えられる、けれでも何か大事な一線。都会ではよくあるのだろうか、「バラバラ」という表記が奇妙。

・終わりはあるし電車はくるし金曜日だし黄色い線の上で待ちます
     土井今日子『早稲田短歌(41号)「行き先ななめ」』

 何事にも終わりがある。あるいは、「終わりのない」状態は想像しにくい。例えば0.9999999・・・=1という完全に正しい等式に違和感があるように。まぁ今週も今日で終りだし、終電を逃したわけでもないし。終わりを意識したときから始まるものだってある。だからおとなしくスタートラインに立つのだ。

・3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって
     中澤系『uta 0001.txt』

 黄色い線の内側へ下がれ、と直接は言っていないが、そういうことであろう。快速電車が通過することを、理解できない人は下がって、と言っている。理解できない人、とはどんな人か。下がって、と言っているのはどんな人か。
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靴紐を結ぶ
・これは君を帰すための灯 靴紐をかがんで結ぶ背中を照らす
     大森静佳『てのひらを燃やす』

 屈むと背中の筋肉や骨があらわになる。そこに光が差して、まさにありありと浮かび上がっている。しかし背中はさみしい。撫でてあげたい、撫でてみたい。せめてもの、なぐさめとして光はあり、眼差しはある。

・かがまりて君の靴紐結びやる卑近なかたちよ倖せといふは
     中城ふみ子『乳房喪失』

 今度は他人の靴紐を結んでいる。しかし場面は同じく男と女であろうか。そこには、子どもの靴紐を親が結ぶ、とは全く違う情緒がある。卑近な動作の中に、幸せを感じると言っているのだ。

・靴紐を結ぶべく身を屈めれば全ての場所がスタートライン
     山田航『さよならバグ・チルドレン』

 靴紐を結ぼうと身を屈める、その姿勢はあたかもクラウチングスタートの姿勢のようである。歩き出すために靴紐を結ぶ、何かあって立ち止まることもあるけれど、そうすることでいつでもスタートできる。背中を押す、風が吹いているようだ。

・屈すればデスクの下のくらやみにくつずれありてバンドエイド貼る
     鯨井可菜子『タンジブル』

 同じ屈むでも、後押しもなければ、開放感もない。明るさもない。けれども、こんな仕草の中にも前向きがある。「ポジティブに考えなくちゃ」というネガティブ、「ネガティブな時もあるよね」というポジティブ。
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糸として見ゆ
・いくつもの私が私を呑み込んで 苦しい、四限、雨、倫理学
     吉村桃香『福岡歌会(仮)アンソロジー「青の光」』

 四、雨、倫、理。いずれも囲われた空間を想起させる。私が私を呑み込んでいるようでもある。青春という字もまさに固い格子に閉ざされているようであり、青春というものはそういうものなのであろう。だからこそ苦しいのだろうと。あぁ苦しい、と認識される瞬間がある。

・「黒いろはほんのちょつとでいいのよ」と言はれき冬の日の美術室
     延紀代子『福岡歌会(仮)アンソロジー「冬と椿」』

 美術における技術的な助言なのだろうが、それにとどまらないメッセージを感じる。色というものはそもそも言葉によって定義しがたいもので、非常に概念的である。その中でも黒は特別である。混沌とした世の中の到達点でもあるようだ。

・迷わないようにするため壁に引くキューピーマヨネーズの星の線
     ろくもじ『福岡歌会(仮)アンソロジー「大人になれば」』

 たっぷり使うとき用にキューピーマヨネーズの口は星形になっている。その線を壁に引く、迷わないようにするために。何かのおまじないのようでもあり、なぐさめのようでもあり。一人ではつらい時間がある、けれどもそうでない時間へ向かって夜は更けてゆく。

・一匹の蜘蛛が伝いし後を垂る糸は光るたび糸として見ゆ
     白水麻衣『福岡歌会(仮)アンソロジー「どこにも行かず」』

 蜘蛛が糸を垂らしながら降りてくる。「僕の後ろに道は出来る」(高村光太郎「道程」)を想起させる。その糸が、光るたびに、あぁ糸だ、と認識される。あるいは鳥の旋回のように、時折この世から姿を消す存在として糸がある。
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第3回(2013年度)
6月9日(日)9:00~11:00で歌会をやりました。
詠草5首、参加者2名。

題詠「線」1首、自由詠1首。

線は線として詠んだものが多かったです。「直線」「境界線」など。
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言葉の響きあい
言葉と言葉が響きあい、そのことによってイメージが浮き立つことがある。言葉に対する先入観は個々の情緒によるところが大きいのだが、響きあいによってその差異を乗り越えた言葉らの並びが、短歌を自立させるのであろう。

・かみなりがのびてのびてひやごはんのうえにおとずれるしずかなこうふん
     相原香月『北大短歌(創刊号)「折れた手で頬杖をつく」』

 「かみなり」「のびてのびて」「こうふん」の中にあって「ひやごはん」が響く。絵本の中にいるような、少し不思議な空間の、中に小さなひやごはん。逃げることがおだやかに、そして静かに肯定されてゆく。

・一線を越えないために深夜一時はじめるしりとり最初は「りんご」
     古山かずき『北大短歌(創刊号)「殺人日和」』

 「一線」「一時」「はじめる」「最初」という《1》を受け止めて「りんご」が響く。しりとり→りんご→ごりら→らっぱ→ぱんだ→・・・という感じだろうか。そういえば初恋(島崎藤村)もりんごである。

・ひとり寝る夜を愛せと指南する賢者のごとし冬の星座は
     内藤瑳紀『北大短歌(創刊号)「あこがれの観察」』

 「指南」「賢者」「星座」が響きあう。ベツレヘムが想起される。愛とは何であろうか、何を愛と言うのだろうか。あるいは銀河鉄道の夜が思われる。死とは何であろうか、何を死と言うのだろうか。孤独とは、生きるとは。

・画家の目は白紙の上に汽水域建設反対派のかげを見た
     三上春海『北大短歌(創刊号)「春と痛覚」』

 「画家」「白紙」「汽水」が響く。淡く、もあんと霞む中にあるようだ。白紙はまっさらではない、白色である。一方で「目」「建設」「反対」「派」が響く。力強さの十分にはない、それでいて白を支えるような明るさがある。
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たとへば君(ニ)
・訃報とはたとへば吾を追ひ抜いて遠離りゆく無燈自轉車
     佐々木六戈『佐々木六戈集』

 夜道だろうか。歩いているところを自転車が追い抜いていく。ライトでもつけていれば近づいていることもすぐにわかるだろうが、無灯では、はっと気付いた時にはもう遠くへどんどん離れていく。何の予感もなくやってきて、我にかえればもう過ぎ去ってしまっている。

・ファインダーにたとへばきみの唇をうばふがごとく絞り開放
     目黒哲朗『CANNABIS』

 唇をうばう、というのは、さぁうばうぞという緊張感があり、その一点に神経が集中する。それからわっと広がっていく感覚がある、というものである。ファインダーというのは撮影用ののぞき窓。絞り、開放する感覚が肉体感覚と重なる。

・人間とともにほろびるものたちのたとえば春の日のオルゴール
     鈴木加成太『阪大短歌(2号)「砂の時計とオルゴール」』

 人間がほろびるようなことがあれば、同時に何がほろびるだろうかと考える。人間が作ったものがほろびるだろうか。人間にしか味わえないものがほろびるだろうか。人間がもっていた感情というものがほろびるだろうか。

・未来とはたとえばこんなところにも二つに割れる赤いピーマン
     俵万智『チョコレート革命』

 未来とはどういうものだろうか。やってきてみなければわからないことを思うのだが、そこで思われた未来とは何だろうか。赤いピーマンとは時期を過ぎたのだろう、それも2つに割れていては売り物にならない。
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たくさんの中の私(二)
・終電を降りた多数の乗客のひとりとなって改札を出る
     牧野芝草『短歌(角川/2013.4)「二十五時」』

 当たり前だが、終電に間に合った人だけが終電に乗っていて、終電から降りていく。そこに秩序なんてあるはずないが、そんな大勢の中の一人として、一人となって改札を出てゆく。

・春のめだか雛の足あと山椒の実それらのものの一つかわが子
     中城ふみ子『乳房喪失』

 春にはいろんなものが生まれる。当然未熟である。たどたどしくもあり、これからどうなるかもわからない。生まれたばかりは旬ではないし、空をたやすくとべはしないし。あるいは「めだかの学校」も思われる。そんなものの一つとしてわが子を見ているあたたかさ。

・黒土を蹴って駈けりしラグビー群のひとりのためにシャツを編む母
     寺山修司『少年歌集・麦藁帽子』

 ラグビー群のひとりとは作中主体だろうか。夢中になってラグビーをする時間とは対象的に、どこか遠くのこととしてラグビーをする自分、シャツを編む母を見ている。たくさんの中にある私、というものをふいに感じる時間がある。

・冬空のたったひとりの理解者として雨傘をたたむ老人
     笹井宏之『えーえんとくちから』

 冬の冷たい雨が降っている。みんながみんな、当たり前のように傘をさす。そんな中、「たったひとりの理解者として雨傘をたたむ老人」。冬空の何を理解しているのだろうか。
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