日々の活動、メンバーの文章など。
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第9回(2013年度)
9月28日(土)18:00~20:00で歌会をやりました。
詠草7首、参加者2名。

題詠「下書き」1首、自由詠1首。

後からなぞるものとしての下書き。下書きの責任、など。
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名詞の並列(二)
一見関係なさそうなものも、並べてみると、案外素直に手をとりあうことがある。並べてみたから見えてくる、一体感ほどは強くない、やわらかな連帯感。そこにある一本の筋に光をあてるとき、ある角度であれば全反射し、相手に届く。そういう緻密さもそこにはあるのだ。

・冬瓜のスープ、モロヘイヤのスープ、冷たい豆のスープ、秋立つ
     大口玲子『トリサンナイタ』

 冬瓜は夏の野菜。冬まで持つので冬瓜だそうだ。モロヘイヤは「野菜の王様」の異名をもつ。食欲のわかない夏の日、冷たいスープに季節の野菜があればおいしくいただけるものだ。冬、冷たい、秋とあって全体的に静かな雰囲気だが、立秋のもつ雰囲気がじんわり滲みでている。冷たいポタージュのように、ざらざらとした質感を残しつつ。

 読点で区切られた名詞たちは羅列と言うよりも、やはり並列と言う方が似合う。助詞を省いて名詞を羅列する方法もあるが、それとは種類の違う、名詞の並列なのだ。

・松中が打った五月の夜はふけて缶ビール冷ややっこ肉じゃが
     鯨井可菜子『タンジブル』

 一方こちらは爽快な歌である。しみじみとしているように見せかけていて、とにかく明るい。地元福岡の「松中」選手をもってきたところに作者像が浮かびあがる。下の句のたたみかけるようなリズム感が、「松中」の打球のように気持ちよく響いている。

・遠い遠い過去のゆびさき 雨 光 林檎のなかに重力がある
     藪内亮輔『短歌(角川/2013.10)霊喰ヒM』

 映像ではなく言葉だから「重力」がある、その重量感をたどることでしか「遠い遠い過去」とやりとりすることはできない。「林檎」は重力の象徴である。それに次ぐのが「雨」だろうか。「光」までくればその重力とは何か、ということになる。しかしそれが言葉であるとき、それ単体で大きな力をもちながらも互いに作用しあう、この歌にもそういう重力があるのだ。

・校庭に脱ぎ捨てられたジャージ、靴、夢 一斉に朝になろうか
     千葉聡『飛び跳ねる教室』

 「一斉に朝になろうか」という呼びかけが、過去のものとして「脱ぎ捨てられた」ものたちをやさしく包む。夢、というのは夜にみるあれだろうか。あるいは勘違いの類かもしれない。諦めた夢なのかもしれない。まあどうだっていい、これからが勝負だ、とそっと背中を押すような、ささやかな力がある。
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天道なお 第一歌集『NR』
いま、ここで起こる出来事を、その中に入って自分の目で見て、その時の感覚で表現する。このやり方はごくごく自然なやり方の1つであろう。「国道をトラックが通り過ぎて家が揺れた」というのは後からの判断によるが、「家が揺れた。ああ、トラックか。」というのはその時の感覚である。このような立場から少し距離を置き、時にはかなり距離を置き、けれども客観的、というところまでは離れない。そういう距離感と、それによって世界とどう向き合うかという模索が、この歌集には詰まっている。

・文体を解体させてはらはらとハザードランプの点滅濡れる
・タイヤ痕途絶えし未明の路上には活字以前の言葉散らばる
・薄紙をじょじょにずらしてなぞる線そうして見失っていくのだ
・点と点のふたりであればどこまでも直線である線はさみしい

渦中にいる自分も、それを取り巻く他者も、その中に入り込んで見るのではなく、やはり外から見ている。その距離感の差から生み出される余白に、また言葉を押し込むことで、奇妙に時空をずらしていく。真っ直ぐな眼差しの中に、そんな自分を冷静に否定する自分がいて、役割をもらった言葉たちは、緊張感を保ったまま余生を楽しむ。

・転生の証をひとつ見つけたり背(せな)の黒子の星座を解けば
・うつぶせた背の上高き高き空さやかに季(とき)はうつろうらしく

ものをつかみやすい場所、体勢、雰囲気、時間。そういうものを自分の中にもっていて、あるいは用意して、だからこそ落ち着いてキャッチできる。

・遠浅の恋人だったまっすぐの水平線を背景にして
・C言語入門書と歌書並びおり背表紙なみだつ皐月の書棚

それが自分の知らないところへ影響を及ぼすこともある。しかしそれに気づいて排斥するのではなく、むしろそれを柔軟にとりいれることで対象との距離を縮みてみることもする。

・故郷をとおく離れてどことなく父に似た背を拠り所とする
・夏草の繁れるあたりゆびをさすやわらかき背にあばれる日射し
・一対の父子の背を見ていたりベジェ曲線を描く草々

生身の人間との関わりあいにおいて、その距離感の模索はいよいよ難しくなる。いないと極度にさみしくて、いると適度にうっとうしい、そういう人らと向き合う中で、単に落ち込んだり喜んだりするのではなく、そこにも小さな余白をつくりながら、距離をはかろうとする。その余白が小さなクッションになるのだ。

・あつき舌氷菓にからめ勾配をゆくひとなつの背中見送る
・じいんじん蟬鳴く真昼えいえんに終わらぬような母のお小言
・冷えきった炭酸しょぱんしょぱぁんとはじけてわらう笑うしかない
・裏庭で夕闇背負い佇んでいたかもしれぬダーウィンの母

見てきたものだけが見えてきたものではない。明るいものだけが光ではない。だからいつだって自分ならではの距離感を求めながら、表現することで見えてくるものを見にいくのだろう。世界と向き合うことは、苦しくもあり、しかしそれゆえ思いのほか楽しい。

・閉じられる窓ひとつある離職の日ここから見える景色があった

(山下翔)
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斉藤真伸 第一歌集『クラウン伍長』
食べることは生きることである。食べることを通して季節を感じ、食べる場所を通して生きていることを感じ、食べものを通して死のあることを感じる。生きることは、その字のごとく実に生々しい。それを戦いと呼んでもいいだろう。人間の食べるということを通して切り取られた生と死の、あるいは現実と虚構の接点。そこに見えた、意外とも言える風通しのよさが、詩的真実という仲立ちによって編まれている。

・ホットミルクの薄皮をとる夜明け前この春最後の霜が降るらし
・半島は猫のまえあし熱々のカルビクッパがテーブルに来る
・マグカップに冷めゆくミルク己にももはや読めないメモを丸める
・現実が油煙にかすむラーメン店バターが味噌のスープに溶ける
・割り箸がかきまぜてゆく納豆の粘り気のみをいまは信じる
・ホットドッグに辛子ぬるべしたっぷりと粗挽きならばなおのこと佳し

生きるということは、それは社会との関わりあいの中で生きるということである。大きく強い流れがあったり、抗いがたく迫りくる構造があったりする社会である。そういう社会とゆるやかに接する方法を模索しながら、葛藤したり、前を向いたり、そしてときどきまるで違う世界と交信したりするのだ。

・あああれは寂しいおとこ皿の上の秋刀魚をあんなにきれいに食べて
・握り飯をジンジャエールで流し込むわが飲食を犬がみていた
・白魚を醤油にそめて一瞬の沈黙生れる祝いの席に
・定食屋世界の果てに漫画誌の油染みたる表紙をめくる

上手くいくことばかりではないし、だからといって世界がかまってくれるわけでもない。戦いはなくならないし、爆発もすれば、人だってどんどん死ぬ。

・歴史書のすきまのすきま戦場となりゆく街に水を購う
・クッキーの包みを破る音のして「地球は平たい協会」の午後
・朝もやの夢は大艦巨砲主義 野菜ジュースをコップに注ぐ
・ラジオからジャズが聞こえて普段着の殺し屋たちがサラダを分ける

虚構の世界と現実の世界と、それから詩的真実の世界を行き来する。そのせいで、何が本当なのかわからなくなるのではない。悩んで苦しんで、立ち往生してしまうのでもない。むしろより現実はクリアになり、そして非現実の世界は一層あかるく自立する。

・かき揚げのところどころに桜えび言うなれば死はすべて討死
・ナショナリストの悦びとして居酒屋に鯨ベーコン友と食むなり
・柿よ柿なぜに実るか先生はもはやおまえを食えぬというに

いま生きているということは、かつて生き、そして死んだ先人がいるということでもある。時代も環境も価値観も文化も違えど、しかし生きることに一生懸命で、そして志をもって戦った魂へ、あなた方が生きた世界を、いまこうして生きているということを控えめにしかし高らかと宣言するような力強さがある。

・これもまた春の水なりスポンジに記念切手の糊を湿らす

(山下翔)
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目覚めると
 夕方はさみしい時間。何となくつけていたテレビから、夕方のニュースの音楽が流れ出せば、かつてあった時間がふっと襲ってきて、急に哀しくなる。夜よ来るなら一気に来い、と言いたくなる。それで時々人は、眠りに落ちるのだろう。そのどうしようもない気持ちのやり場に困ったあとで。

・何かかなしき夢をみてゐき目覚むれば青空のまま夜となりゐる
     河野裕子『体力』

 夕方を通り過ごしたのだろう。逃げたはずの夢の中でも、かなしみに襲われてしまった。現実では、青空が夜になり、しかし自分の中には確かに残っている夕方の記憶。記憶とも呼べないような、時間に対する肉体感覚が、夜がそうであるように、くっきりとたちあがってくる。

・目覚めると満月のすごい夜だった頬によだれがべったりあって
     永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

 苦しくて、目覚めた。いつの間にか寝てしまっていたのだろう、目覚めてからやっと、満月のすごい夜であることを認識している。そうしてやっと我にかえって「頬によだれがべったりあって」と受け止める。現実に引き戻されても、夜ならばまた眠ってしまえばいい、明るさ。

 目覚めたら夕方、というのもやりきれない。

・昼寝より覚むれば世界黄ばみをりカナカナの声ひとすぢ垂れて
     栗木京子『しらまゆみ』

 つい、うとうとしてしまったのだろうか、気づけば世界の色が違う。あぁこんな時間まで寝ていたのか、と時計を見る。もうすっかり薄暗くなっていて、どうせならば夜に目覚めたかった。しかしこれからやることもあるし、というところに、ひぐらしの声がする。また、少しぼーっとしてしまう。

・校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け
     穂村弘『ドライドライアイス』

 夕方、人は世界と、奇妙な出会い方をする。その奇妙さを胸に押し込んで、そして時々は泣いたり眠ったりもして、また生きていこうとひそかに決意するのだろう。
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第8回(2013年度)
9月15日(日)10:00~12:00で歌会をやりました。
詠草6首、参加者3名。

題詠「靴紐」1首、自由詠1首。

靴紐に何かを託したり、靴紐を何かの象徴にしたりせずに、どういう歌が詠めるか話しました。
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たまごサンド
・はつなつのたまごサンドを飲み込んで広葉樹林に佇むふたり
     笹井宏之『八月のフルート奏者』

 広葉樹林に二人。たまごサンドを「飲み込む」という行為と、「佇む」という行為にいささか距離がある。ふたりでいて、少しまだ距離がある。いい緊張感がある。動きがぎこちなくなる、たまごサンドを飲み込む。ゆっくり話し出す。


・砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている
     俵万智『サラダ記念日』

 こちらは砂浜に二人、だろうか。他のものは食べられてしまい、そこに卵サンドが残っている。ついに、とあるので、もう食べられないものであろう。もちろん自分で食べてしまうことはできるが。角川短歌賞をとった「八月の朝」の中の一首。このときの篠弘評に、<「卵サンド」は、短歌に誰も詠んでこなかったもの。>とある。

・てのひらに小鳥が眠っているような重みを玉子サンドはもてり
     鍋島恵子『短歌(角川/2012.11)「ペットボトルとつりあう宇宙」』

 やわらかい重みである。ささやかな重みである。そしてそれは命の重みでもある。玉子サンドの重量感を眠れる小鳥に託した、そのゆるやかな心の動きが滲みだす。はっきりとではない、しかし無視してはおれぬような、そんなやさしさに似た重みをもって。

・パンひとつ選べぬ夢に目を覚ます いちにちたまごサンドを思う
     辻聡之『短歌研究(2013.9)「薄い影」』

 あれこれ気になって、結局どうすることもできず、けれども何となく気になっている。そんなことが時々ある。時間によって、あるいは場所によって、誰といるかによってその気分は少しずつ変わるけれど。そのうち3日も経てば何事もなかったかのような日々に戻る。人の死さえもその程度だと誰かが歌っていた。
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