日々の活動、メンバーの文章など。
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10月13日(日)18:00~20:00で歌会をやりました。
詠草6首、参加者3名。 題詠「餃子」1首、自由詠1首。 題詠に苦戦しました。餃子にもいろいろな種類があるようです。 スポンサーサイト
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普段生活している場所はいろいろな様相が入り混じっている。天気も感情も、自然も人工物も、人間もその他の動物も。その中に過していれば、自ずとその差異や混じり具合を感じることもあるだろう。それを冷静につかみとることができる時期もある。しかし何かの拍子にその視野はたとえば自然に偏ったり、感情に偏ったり、人間のつくるものに偏ったりする。それらもまた一つの様相である。それらを作者の、その時々の、バランスのいい、あるいは偏った視野から掴み取った284首が収められている。
・かなしみがかなしくなくてくるしみもくるしくなくて熱だけのある ・浅瀬から浅瀬へ渡る風の舟、うつむいて水、あおむいて空 ・羽をもつひとと静かな声をもつひとが出会える街路樹だった ただそこに在るだけの自然を、そのまま切り取る、ということは案外難しい。その時々の自分の状態によって偏って見えるからだ。むしろ偏るということが見えるということと言ってもいいかもしれない。しかし時々、それは言葉のある種の力かもしれないが、在る景色そのものをそのまま切り出したような歌がある。 ・ひゅほろう鳶は高みに舞いあがり朝餉をもとめ浜の風切る ・ウイスキー樽の眠りをふかぶかとつつむ貯蔵庫みたいだ秋は ・夕映えの雲はながれず刻々と魚(うお)の背色(せいろ)に染まりゆく空 言葉にはイメージや概念や、それから文化や風土や宗教観が混じっている。それゆえ投げ出した言葉が、全く違う意味をもって相手に届く、ということも往々にしてある。だから言葉を選んだり、共通の枠組みを作ったりして、そういう行き違いのようなものが極力起こらないように工夫するのだ。 しかし時に、ある共通認識のもとに様々なことが解釈されてゆく、そういう流れや雰囲気ができることがある。共通の苦しみや悲しみの中にあるときだ。 ・僕たちは生きる、わらう、たべる、ねむる、へんにあかるい共同墓地で そんな時、自然とその眼は人工物に到る。人工物の無機質で無気力な冷たさにぬくもりやささやかさやもがきを加えようという意識が働く。共通認識という大きな流れに抗うようで、むしろ大きな流れに支えられてそういう視野が開かれる。 ・どこまでも走った日々の思い出をいだいてねむる放置自転車 ・えらぶことえらべないこと蛇口から出る温水をうける手のひら そしてやっぱりそれらの視線は再び自分へと返ってゆく。こういう現象を反射と言うのだろう。 ・今日眠るふとんあります明日食べるパンもあります祈りのゆびも 布団があること、パンがあることが大事なのではない。眠ることができるということ、食べることができるということ、そういうことがどれほど自分の身体を支え、作り、そのおかげで日々の生活があったかに意識が向く。 ・陽ざらしの鉄路に立てる夏草が六分おきにあびる烈風 ・ほんとうは苦しかったと言えばいい野菜室には乾いた葱が そして大きな流れの中に自己を確かめ、また混沌とした世界の中へ帰ってゆくのだ。 (山下翔) |
・ほどけゆくけむりをわけてあらわれる青魚わが喉を見ており
巻頭の1首である。フライパンで蓋をして、あるいはグリルで魚を焼いていたのだろう。蓋をあけた瞬間に蒸気がぼわっとあふれ出し、それが次第に拡散してゆく様を「ほどけゆく」と言っている。それはなにか、登場シーンのような明るさと厳かさを持つが、あらわれた魚は作者の喉を見ている。この不気味さに驚いた。 二の腕、爪、脊髄、瞳孔、歯、顔、手の甲、腿、……など体に関する言葉がたくさん出てくる。それらが、さりげない場面設定と可笑しみのある、あるいは衝撃的な言葉によって、すくっと立ち上がる。 ・どれでもいいというような瞳(め)で厳密に選んでいる夏の元気な野菜 ・沈黙をにぎりしめ彼は階段をかけあがってく 見ろふくらはぎ ・馬鹿にされたことは誇っていい 熟れたトマトを渡した手を忘れるな ・君の汗ばんだ鎖骨をなでること(おもしろい行為というほどでもなく) 現実の世界に触れ、その実際を感じるのは自分の身体である。手でつかみ、目でみつめ、座り込み、声を聞きながら生活圏内のものと対峙する。 ・恋人の横顔じっと見ておれば解体されてゆくビルのあり、夏 ・ポケットのなかひとひらの枯れ葉あり いつ舞いこんだ葉なんだろう、空 ・ペンキ缶ぶちまけた床に座ってる 途方に暮れるのやめて、金色 ・春戦争 いつまでもずっと開いてるぼくのノートに降りてこい、鳥 結句、読点を打って体言止め、という歌がいくつかある。視点がすっと大きいところへととんでいく。初句、体言で切り出して読点を打つ、という歌も同様にある。いきなりやってきて、なんだなんだ、となる。 このようなダイナミックな視点の動かし方と、繊細な言葉の斡旋がバランスをとりあっている歌集でもある。 ・とおいとおい誰も殺さぬ戦艦を春の海へと浮かべるふたり ・靴紐を結べば轟く雷鳴の(先に着きたし)地図をひろげる ・ひさかたの光のどけき春の日に野花の民話の朗読をせり 日常は何気ないようでドラマチックである。何も考えていないように見えてたくさんの意図や意志が蠢いている。しかし景色は概ね美しいか寂しいかである。そういう風に見えてしまうのは、生活に慣れてしまったからだろう。 ドラマチックな日常を、もう一度よく見てみると、これまで湧いてこなかった言葉が生まれるし、見えてこなかった舞台があらわれる。それを歌の型に流し込むところにこの歌集が誕生した。 (山下翔) |
とっておきの話、というものは、その名のごとく、大事に自分の中に持っておくのが良いと思われている。しかし時々、いや、多くの場合それはそのまま腐ってしまう。だから大事にとっておかずに、さっさと誰かに話してしまう。そうすればそこに別の光が当たる、風が吹き込む、姿が見える。こうして世界を把握し、そして明るく、歩く背中を押す、そんな299首が収められている。
・誰ひとり降りない駅のホームにも誰かのためのひかりは灯る ・死を待つのではなく死へと進むのだ 花は花瓶でなお咲くように どんなことにも「裏を返せば」ということがある。ひとまずは、そうやって両面から眺めてみる。それからもっと違う立場から眺めていく。どうしても見ることのできない側面があることにも気づく。それでも見えないかと試行する。 ・待つことは待たせることか海までの坂にだれかの蜜柑は朽ちて ・春の日に手を振っている向かい合うことは誰かに背を向けること ・ひらく傘とじる傘あり地図上は平和に満ちているのにな 雨 ・病室で生きている花と枯れてゆく花を分けつつ聞く蝉の声 世界を掴んでいこうとすること、その中心部分に触れようとすることは怖い。けれどもその表面は思っているほど暗くはない。いやむしろ、明るく、面白く、好奇心をくすぐるようなものである。その表面に触れながら、少しずつ核心へと迫っていくことが大人になっていくことなのかもしれない。 ・とりどりの線でこの世とつながってしずかに隆起している身体 そんな世界と、しかし姿勢を正して向かい合わねばならない時がある。もちろん逃げることもできるが、逃げることは、そのまま帰れない場所が増えてゆくことを表す。だから普段はゆるやかにつながっているこの世界や社会と向き合うのだ。 ・病室でおかえりと言う 帰るべき場所ではないと知りつつも言う ・遠かったでしょう答えのない問いをふたりの真ん中あたりに置いて ・企みを裏切る強さ 浜辺ならお城が砂に戻るまで踏む ・うつくしくあれ没個性 パック入り卵ただしい丸みを帯びて 世界を把握するのはこわい。 けれどもこんな風に世界を把握できると知った子どもたちは、きっと、もっとはやく大人になりたいと思うだろう。 世界にはそんな明るさがあるし、そういう世界を捉えてゆくこと、手で持って感じてゆくこと、ときどき裏切られ、それでも立ち向かってゆくことを通してその明るさを噛みしめることは、生きる喜びの一つであろう。 ・さざなみのような少年駆けぬけてひとつひとつの扉をたたく ・子供らの手には空蟬 いなくなる理由はどんなときもただしい (山下翔) |
・喜びの旅の終わりの始まりの長く儚いショートトラック
堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』 「の」の連続は時に、語と語の関係性を曖昧にする。主述、修飾被就職の関係が曖昧になるのだ。この歌においても「喜びの旅」が終わるのか、「旅の終わり」を喜んでいるのか、といった問題が生ずるであろう。「始まりの始まり」「終わりの始まり」などという表現はよく使われる表現である。と考えると、上句に意味を求める必要はあまりない。下句へつながる序詞と捉えると、すっと一首が立ち上がる。「あしひきの」にも通じる歌である。 ・くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる 正岡子規『竹の里歌』 「の」の連続は読み流されてしまうという危険性を孕んでいる。しかしそれは、そうならないような語、すなわち長めの語を挿入することによって回避されるどころか、むしろその一語が際立つ効果をも生む。ここでは一首がさらっと動くが、「やはらかに」で時間はゆっくり動く。「針」のやわらかさ、「春雨」のやわらかに降る様がじんわりと広がってくる。 ・お別れの茶会のあとのガレットの屑やわらかに春雨の降る 鯨井可菜子『タンジブル』 子規の「くれなゐの」の本歌取りである。お別れの場面という、ともすれば湿りがちな場面を「の」の連続によって和らげている。「屑」のやわらかさは湿り気であり、「お別れ」「あと」「屑」「降る」によって、お別れの雰囲気と時間の経過の中での1コマである明るさがにじんでくる。 ・駄菓子屋の裏の畑の葛の花見て通りしを思ひ出でたり 伊藤一彦『月の夜声』 葛は秋の七草の一つである。紫紅色の花をつけるマメ科の植物だ。繁茂力が強く、畑の周辺に育っていたのだろう、その花を見て通っていたことが思い出されたという。思い出というものは、あることをきっかけに走馬灯のようによみがえる。そのスピード感が「の」の連続によって迫ってくる。童謡『赤とんぼ』に「山の畑の桑の実を」とある。 |
人は、誰かとのやり取りの中で生活している。そのほんの些細なすれ違いから憎しみや苦しみが生まれ、そして最後には悲しさだけが残る。うまくゆかぬことを実感するとき、そこにはただ在るだけで何も言わない木々があり、花々があり、風景がある。山があり、海があり、季節があり、光がある。雨が降り、虹がかかり、埃が積もり、風が吹く。それはかろうじてつなぎとめた生きることへの希望が、かすかなあたたかさを掴む瞬間でもある。そんな瞬間を掬いあげた195首が収められている。
・歌はいつでも遅れてやって来ていつもその中に海岸を隠し持つ ・生まれた瞬間懐かしくなる歌のように駅の周りで傘は開いた タイミングというのは、すべて相手のものである。相手がどこに何を求めているか(それを相手が自覚しているとは限らないが、いや、自覚していない場合がほとんどではないだろうか)、その要求に忠実に応えることでしか、何もしてやれない。そんな厳しさの中で、言い訳をすることや、その場から逃げることは、すなわち帰れない場所が増えてゆくことを意味する。 ・夜がまだきみの瞳に貼りついている間に話す僕の過失を ・ひかりまばらな壁の震えを知るためにコンクリートの窪みに触る ・折れた梅さえ心に挿して春先の真面目さは仇になりゆくばかり ・生きていることが花火に護られて光っているような夜だった しょっぱい、と思うとき、そこには塩からさと苦さがある。水分がどれくらいあるか、あるいは塩分がどれくらいであるか、それによってもずいぶん異なるが、その遅れてやってくる苦さに、戸惑い、躊躇い、彷徨うのかもしれない。 ・夕暮れに黒い電車が移動する寂しい限りの力を持って ・静かなる夜更けの駅にあらわれて夕暮れの歌うたうわかもの ・悲しみは夏なめらかな汽車となりすべての駅を通勤するね 歌や小説は荒い。荒いから、ある時ふいに震えがやってくる。全身がしびれるような、震えだ。ほんの一瞬走り去ってゆき、呆気にとられて涙が出るかもしれない。しかしこの歌集は全く別のものである。気づいたときにはじわじわ心臓が圧迫され、まるで体中の熱がその一点に奪われたような苦しさを味わう。そして集められ、混ざりあう熱が胸を痛くする。その熱がゆるやかに全身に還るとき、もうどこも、冷たくない。 (山下翔) |
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