日々の活動、メンバーの文章など。
page top
「の」の連続(二)
・ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一(ひと)ひらの雲
     佐左木信綱『新月』

 結句に向かって焦点は絞られてゆき、一ひらの雲に目がとまる。秋の空はなんだか高い。その高い空に浮かぶ雲へ向かって、スケールは大から小へと移行していく。
 「の」の連続が新しい手法かと言えばそうではない。一首を「の」で貫くのは確かに稀有だが、「秋の夜の夢の終わりの」や「麦の畑の間の路の」という具合に、ポンポンと言葉を並べるような使われ方はされてきた。この一首の凄みは、そういうテンポにあって、「上なる一ひら」という長い語句を挿入し、最後にポンと「雲」を持ってきたところにある。この緩急が「の」の新境地を開いたのだ。

・あじさいの花の終りの紫の濡れびしょ濡れの見殺しの罪
     佐左木幸綱『群黎』

 信綱の孫にあたる幸綱の作。あじさいの花が終わる、というのは、季節の終わりでもあり、一つの生命の終わりでもある。上句は信綱の文体そのものであるが、そこには「濡れ」を引き出す序詞のような役割もある。そうして下句で大きく反り返している。針金をぐいっと曲げるような、そんな力がある。
 あじさいの花の紫が濡れている。こういう表現は短歌ではある。そこに「見殺しの罪」を持ってきたのが作者の味だろう。「見殺しの罪」が具体的にどんな出来事を指しているのかはわからないが、概念的なものと思えば、それだけでも一首の核になっている。

・四国路の旅の終わりの松山の夜の「梅錦」ひやでください
     俵万智『かぜのてのひら』

 幸綱に師事した俵の作。ここでもやはり、旅の終わりの夜へ時間は収束してゆき、そしてそこで飲む「梅錦」に焦点が絞られてゆく。信綱の文体を自由にとりこんで、なおかつそこに二重構造をもってきている。そして結句はひらがなで「ひやでください」と。こういうところに表現の豊かさがある。
 季節感からくる湿りや重みはなく、その分やわらかさがある。それは「松山」という地名のもつイメージかもしれない。「松山」と「梅錦」という固有名詞が大きな流れの中で、さらに全体のイメージをつくる役割を果たしている。

 さて、時間をぐっと今に戻すと、こんな一首がある。

・みぞおちの疼きの止まぬ終電の吊革の輪の揺れの等しさ
     堀合昇平『短歌研究(2013.11)「放鳩」』

 止まぬは連体形だから、終電のみぞおちが疼いている、と読むのが自然だろう。終電に乗り合わせる人のぎりぎり感からくる疼きである。と同時に、それは作中主体の疼きであるかもしれない。すなわち、「疼きの止まぬ(私が乗っている)終電の」という風に読めやしないだろうか。むしろ「止まぬ」の連体形を意識していなければこの読みになるかもしれない。
 人間の営みは混沌としていて、様々な状況を生き、それぞれの感情が蠢いている。それらを乗せてゆく電車の「吊革の輪の揺れの」「等しさ」にふと目がとまる。混沌の中に見つけた均質の空しさ、あるいは明るさ、そこへ焦点が絞られてゆく。
スポンサーサイト
page top
サ行の押韻
・白鳥(しらとり)は哀(かな)しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
     若山牧水『海の声』

 白い鳥のその白が、「空の青」にも「海のあを」にも染まることなく漂っている。漂っているところは空なのか、海なのか。一羽なのか群れなのか。わかりやしないが、空と海という絶望的に大きな青-それもそれぞれ少し違う青-に挟まれて、白鳥は哀しいだろうに、という眼差しがある。
 ここでのサ行音は悲壮感を誘う。それも強く主張するようなものではない。ささやかにそこに在るだけの哀しみである。その中で「の青海のあをにも」がことさら重みを持ち始める。生々しく強大なうねりが迫ってくる。

・白き虚空とどまり白き原子雲そのまぼろしにつづく死の町
     近藤芳美『喚声』

 入道雲に原子雲を見ている。そしてそこから「死の町」を喚起している。核爆弾によって壊滅した「死の町」である。
 「し」の音が5回出てくるが、それが結句の「死」へと凝縮していく。「生死」という湿り気や温度のある「死」ではない。もう何もない、その空虚としての「死」が、何をするでもなくただそこに在る原子雲から幻として見えてくるのだ。「白き虚空」「白き原子雲」を<とどまる>と敢えていったところに存在感、ひいては虚無感がうまれた。

・とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩を
     寺山修司『初期歌篇 燃ゆる頬「森番」』

 少年が大事に書いた詩だろう。詩と呼ぶからにはそういうものになる。「虐げられし少年」なのか「虐げられし」「詩」なのか。どちらも含んでいる。それをいとも簡単に汚すことのできるもので、やすやすと汚すな、と言っている。少年期特有の痛みや迷いや葛藤や苦しみや不安がある。それを通過した人から見れば滑稽に思えるかもしれない。自分にも経験があるわけだから貶しかたもわかっている。あるいは克服できなかった、正面から対峙できなかった、そういう悔しさや後ろめたさからくる嫌がらせもあろう。
 詩には死がかかっている。そんな陳腐なもので、覚悟もなく、ただ使えるというだけの少しばかりの技術で少年を殺すな、と。

・寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら
     俵万智『サラダ記念日』

 2人で浜辺にいるのだろうか。波は穏やかに寄せては返す。「いつ言われてもいいさようなら」は、言われることなんてないであろう「さようなら」である。それくらい今、2人の関係が良いことの裏返しではないだろうか。
 上の句のサ行音の連なりがそのまま「寄せ返す波のしぐさ」になっている。そうして結句でポンと「さようなら」のサ行音が入る。これがまた「いつ言われてもいい」を体現している。もし言われるならば唐突に言われるだろう、それくらいその言葉に対する予感が全くないのだ。
 ここでのサ行音は一見すると明るく、穏やかである。しかしそれは、永遠なんてない、という儚さの象徴にもなっている。
page top
第12回(2013年度)
11月10日(日)18:00~20:00
詠草8首、参加者3名。

題詠「窓」1首、自由詠1首。

1首の「わかりにくさ」を、言葉の並べ方や接続によってどう解消していくか。
(解釈はいろいろあってもいいが、景色はぶれてはいけない。)
短歌の入り口(種、きっかけ)で終わっている歌について。
など。
page top
木下龍也 第一歌集『つむじ風、ここにあります』
 短歌を読むときの反応としていくつかある。無関心、否定、共感、驚き、理解不能、拒否という具合に層が積み重なっている。時にはいり乱れている。その中でも、<共感の層>の中の上から<驚きの層>の中の下の領域、そこを意識してつくられた歌が、この歌集にはたくさんある。いわゆる「何気ない日常」をそのままは切り取らず、かといって過剰に「ぼかし」たりしない。

 ・主人待つ自転車たちのサドルから黄色い肉が飛び出している
 ・カレンダーめくり忘れていたぼくが二秒で終わらせる五・六月
 ・少年がわけもわからず受け取ったティッシュが銃じゃなくてよかった
 ・飛び降りて死ねない鳥があの窓と決めて速度を上げてゆく午後
 ・救急車の形に濡れてない場所を雨は素早く塗り消してゆく

 生々しいことがそのまま美しさになるわけではない。しかし過剰に「ぼかし」てしまうのは一種の逃避だ。責任逃れだし、思わせぶりだし、建前としては「一般論への昇華」とか「歌の余白」になるんだが、それは単に自信と覚悟がないことの表れでしかない。確かに、自然とぼやかされた状態でうまれることもあるだろう。想像の余地というのも大事だ。また、自信をもって把握できることがそんなにはないことも事実だ。それでも一歩踏み込む、この歌集のような「潔さ」やその形跡が、歌になるかならないかの1つのポイントになるのだ。

 ・鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい
 ・さっきまで騒いでたのにトイレでは他人みたいな会釈をされる
 ・一枚の布だとしたら引っ張ってこちらを雨にしたいような日
 ・タイヤから冬の空気がすこしずつ春へと溶けてゆく音がする
 ・かなしみはすべて僕らが引き受ける桜の花は上に散らない

 見えないものを見ることで、掴めないものを認識することで、世界は一層広くなる。

 ・つむじ風、ここにあります 菓子パンの袋がそっと教えてくれる
 ・一本の道をゆくとき風は割れ僕の背中で元に戻った
 ・風に背を向けて煙草に火をつける僕の身体はたまに役立つ
 ・空を買うついでに海も買いました水平線は手に入らない

 そしてそれが、ゆるやかに社会と接する、1つの方法なのかもしれない。

 ・じっとしているのではない全方位から押されてて動けないのだ
 ・B型の不足を叫ぶ青年が血のいれものとして僕を見る

(山下翔)
page top
堀合昇平 第一歌集『提案前夜』
 全体に毒がある。予防接種のような毒だ。あとがきに「たった三十一文字の定型ですら思うように扱えない自分を目の当たりにする」とあるが、そういう自覚ゆえの、繊細に編まれた歌集であり、全317首を一つながりに読める大連作である。

 ・こころざし無き者は去れと枯らす喉みないなくなりそうで水無月
 ・泥臭いとこ突いていこうよ「ちゃん」付けで呼ばれればなお引き立つ弱さ
 ・結び目をほどけば匂い立つ汗を見果てぬ明日の手がかりとする
 ・スパイシーチキンにしゃぶりつくまでの葛藤 帰り道は長くて
 ・褒められて育つタイプと新人が挨拶をする きらきらきらら

 善意や希望や明るさだけでは詩になり得ないことを知っている。けれども、歌を読んだ人が、現実の両面性にうちのめされるだけでは意味がない。希望の光を見せるのではなく、内側から抗体をつくってゆく。そういうささやかな、しかし痛みに満ちた優しさがある。

 ・劣化したアイドルみたいな顔のまま新品まみれの街をゆこうか
 ・雑居ビルの二階の窓を埋めている「空室アリ!」のビックリマーク
 ・労働の意味突き詰める友のいていまだ仕事を得たとは聞かず
 ・リニューアルオープンの旗ひらめかす店の名前に見覚えはなく
 ・だめだだめだもっと胸元に来なければ駄目だと諭すティッシュ配りに

 優しさは悔しさの裏返しだ。悔しさが行き場を失くしたとき、眉をいじったり、ゴミを拾ったり、傘を差さずに街を歩いたりする。街を通して自分のことが見えてくる。そういうことの繰り返しだ、日々は。いろんな世界を行き来して、<こっちの世界>の難しいことを<あっちの世界>で考えて、また引き戻す。そうすることで、なんとか上手くやっていけるのだ。

 ・「ナイス提案!」「ナイス提案!」うす闇に叫ぶわたしを妻が揺さぶる
 ・譲れない思いなどではないことに議論の最中気づくのでした
 ・敗北も勝利も拒む僕がいて校舎の裏でシメなきゃ駄目だ
 ・苛立ちをなだめる為の象(かたち)かなサンドウィッチのフィルムを剝がす

 何をやっていいのかわからずに、だから何もしないのではなくて。それでも歩く。それで、ぶつかる、巻き込まれる、飛ばされる、つまづく。だからまた、歩ける。

 ・靴ひもを整えてまた歩きだす嘔吐の跡のつづく街路へ

(山下翔)
page top
風。そして
 初句、「体言。」の形ではじまる歌。

・風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしはシーツをかける
     笹井宏之『えーえんとくちから』

 風が吹いている。というよりは、風をおこしている。といったほうがいいだろう。「あなたがねむる」夜へ毎晩、風をおこすのだ。「シーツをかける」時におこす風。物理的には届き得ない風だが、小さな力とか波とか、そういうもので「あなた」とつながっていたいという気持ちが漂っている。

・冬。どちらかといえば現実の地図のほうが美しいということ
     穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

 冬がやってきた。現実なのか、地図なのか、ではなくて、「現実の地図」とある。実際の地図、ではない。地図にかかれることは「かけること」だけである。そういう美しさがある。つかみとれる美しさ。曖昧さの排除された清々しさがある。しかしそれは「どちらかといえば」という程度のことだ。冬じゃなかったらそうはならないのかもしれない。

・雨。きみの言葉の端に降りかかり何度も聞きかえす国道沿い
     辻聡之『短歌研究(2013.9)「薄い影」』

 雨が降っている。その音で「きみ」の言葉を上手く聞きとれないでいる。だいたいは聞こえているのだが、ところどころ聞こえないところがある。それで「聞きかえす」のだ。「国道沿い」を二人で歩きながらだろう。雨が直接言葉に降りかかっているようで、言葉も少し湿っている。雨はいろんなものを濡らす。音を立てたり、しみこむように濡らしたり。

・午後。唇(くち)といふうすき粘膜にてやはく他人の顔とつながる
     辰巳泰子『紅い花』

 午後。「他人の顔とつながる」ひとときがある。それを「唇といふうすき粘膜にて」と言っている。えらく遠まわしに聞こえるかもしれない。それでどうなったんだ、と思われるかもしれない。全ては「やはく」のための演出である。その柔らかさを言うために、ごつごつした言葉が用意されている。柔いのだ、唇が触れるとき。
page top
第11回(2013年度)
10月27日(日)18:00~20:00
詠草4首、参加者2名。

題詠「揺れる」1首、自由詠1首。

短歌研究11月号などから何首か鑑賞しました。
© 九大短歌会. all rights reserved.
Page top
FC2 BLOG