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「ぼく」が「ぼく」であることをめぐって―阿波野巧也と「ぼく」
 二ヶ月ほど前の記事で、阿波野巧也の『miniature』を読んだ。「そうだよな」「微熱」「はいつも遅れて」、というタイトルで文体や語彙の特徴をすこしだけ拾ったのだった。その際は敢えて触れなかったのだが、しかし見逃すことのできない阿波野作品の特徴、すなわち「ぼく」が「ぼく」であることをめぐる歌たちのことを、『羽根と根』創刊号にも触れながら取り上げたい。

・生まれ変わってめちゃカワガールになりたいな/ぼくが頬張ってるロリポップ

 『羽根と根』創刊号より、連作「モード」の冒頭の一首。「生まれ変わったら」ではなくて、「生まれ変わって」。「ぼく」が「ぼく」であることへの意識は、もうここまで来ている。
 もう少し前の作品からみていく。

・交差点をすくすく進むだれもかもぼくに見えてきて超いい感じ
・点滴がぼくの身体に混じりつつどこまでぼくでいられるだろう
・蛍光灯のひかりばかりを見てしまう 死ねばあなたになれるだろうか
・ぼくの手にiPhoneだけが明るくて自分の身体で歩いてゆける
・コミックを開けばそこにある街のどうしてもぼくなんだねぼくは

 『miniature #3』の連作「シティトライアル」から。2013年の5月ごろのものらしい。
 一首目、「だれもかも」(ふつうは「だれもかれも」あるいは「なにもかも」だと思っていたが……)が「ぼく」に見えてくるという把握から、「超いい感じ」と持ってくるやり方は、もはや阿波野の定番とも言える。ここでは「ぼく」とそれ以外のものとの融解するところを、すなわち「ぼく」が「ぼく」であることが甚だ不確かなところを、しかし「超いい感じ」と言っている。
 一方で二首目では、「ぼく」の身体の中に「ぼく」ではないものが入ってきて、そのせいで一体「ぼく」はどこまで「ぼく」なのかという疑問が生じている。それでいて三首目では、「ぼく」は「あなた」になれるだろうかと想像している。「ぼく」が「ぼく」でいることを辞め(てみ)たいという感情は、冒頭の「めちゃカワガールになりたい」へつながる。
 四首目、「ぼく」が「ぼく」であることを実感しながら、一方で五首目、どうしても「ぼく」は「ぼく」なんだと、なかば諦めのようなものが透けて見える。
 「交差点」「点滴」「蛍光灯」「iPhone」「コミック」というアイテムを持ち出しながら、その周りに「ぼく」が「ぼく」であることをめぐるいくつもの感情がからみあっている。

・皮脂でなぞった学習机のぎらぎらに気づいてこれもわたしだと知る
・わたしはほんとはわたしじゃなくて制服をたまに脱ぎ捨てたりもしている
・冬というふゆにわたしが解かれてゆくままに君よりも君になりたい
・Re:ぼくよりもぼくであるものはもはやぼくだよ。おやすみなさい。
・冬が終わると春がくるのは当たり前で当たり前にぼくはきみになりゆく

 『miniature #1』「ビュレットの海」30首より。制作時期は2012年の秋から冬にかけて、とのこと。一首目、「これもわたしだと知る」という結論はわかりすぎるが、これが先の「点滴」の歌へと続いているのだろう。二~四首目も決して良いとは言えない。例えば「解かれてゆく」「なりゆく」においては「ゆく」の不自然さが気になるし、「制服」「冬」という核が、十分に感情を引きつけるだけの力をもっているかと言えば不安が残る。けれども、「ぼく」が「ぼく」であることへの意識がここにもあることは、はっきりと認めることができる。
 もう一つ注意しておくならば、この連作では「ぼく」だけではなくて「わたし」も出てきている。『miniature #3』に代名詞にまつわるエピソードがあって、「ぼく」の他にも「俺」とか「わたし」について書かれてあるのだが、その意識についてもまた、このとき既に下地があって、長い間、「ぼく」と「わたし」が混ざりながら作品世界に「ぼく」がいるのだ。

・ぼくが街に同化していくような午後 踏切の鳴る音を聞いてた
・ぼくにはぼくのことはなんにもわからない メールの返事を打つ、消す、そして打つ
・ぼくはきみになれないということだけが何度も不在着信になる

 さらに制作時期の古い『miniature #2』「それでも町は」より。もうあれこれ繰り返さないが、ここまで『miniature』を通して読んでみて、#3「シティトライアル」の五首にある「交差点」「点滴」「蛍光灯」「iPhone」「コミック」といったアイテムの強さが改めて思われる。それは「ぼく」が「ぼく」であることをめぐって何かを述べるときに、そのためのアイテムとして効いている、ということはそうだけれども、単にそれだけではなくて、新しい歌語としての強さのような、それが、「ぼく」が「ぼく」であることをめぐる歌たちを作り続ける中で、獲得されていったのだと見える。(本題とは関係ないが、それ自体が歌になるわけではないけれども歌の核になって歌を手繰り寄せるような言葉、そしてそれはすぐに使えなくなるかもしれないが、だからこそ、そういう言葉を探り当てていく作業が要るんじゃないかと思っている。)

 さて、『miniature』についてはこのくらいにして、手元に『京大短歌』が二冊あるので、そちらもみてみる。

・街だって自然だし造花だって咲いてるよ。 どうしてぼくだけがぼくなのだろう
・雨の日の空間がぴたぴたしててほんとはぼくじゃないかもしれない
・ぼくにはぼくがまだ足りなくてターミナル駅に色とりどりの電飾

 一首目、19号「ワールドイズファイン」より。「ぼく」だけが「ぼく」であることへの素朴な戸惑い、といったところか。焦りではないし、苛立ちでもないし、単なる疑問とも違う気がする。
 二・三首目、20号「cube」より。二首目、雨の日の「空間がぴたぴた」しているという表現にしびれる。一首目では「ぼく」が「ぼく」であることに戸惑っているが、こちらでは、「ぼく」は「ぼく」じゃないんじゃないかと疑っている。それはその空間が「ぴたぴた」している表情を見せているように、「ぼく」だと思っているけれども実のところそれは「ぼく」ではない、完全に「ぼく」ではないとまでは言わないにしても、少なくとも「ぼく」の思うところの「ぼく」は、思っているところにおける「ぼく」に過ぎないのではないか、という疑いだ。
 三首目、「ぼく」に「ぼく」が足りない、とはどういうことだろうか。「ぼく」である時点でそれが「ぼく」であるはずなのに、まるで「本当の」「ぼく」はこんなんじゃない、とでも言いたげだ。どこかに本当の「ぼく」があってそれを探しにいこう、という流行りのテンションではなくて、例えば「ぼく」の「ぴたぴた」した一面を見ようとしている。前田康子は一首鑑賞『日々のクオリア』(2014/04/14)で、この歌に「自分の存在の揺らぎのようなもの」を見たうえで、「上の句は口語でさらっと表しているが、とりとめのないアイデンティティの揺らぎがあり切なさを感じた。下句の電飾の輝きがさらに足りない自分を強調させる。」と評している。

 冒頭の一首に戻る。
 ここでの「ぼく」もまた「ぼく」を思っている。「めちゃカワガール」と「ロリポップ」が核にあって、その二つの核がスラッシュを隔てて二つの「ぼく」を引き寄せている。いつか、ではなく、今からでもめちゃカワガールになりたい「ぼく」と、もちろんそんなことはかなわずロリポップを頬張っている「ぼく」。生活のところどころに「ぼく」と「ぼく」の隔たりがあって、そのことが「ぼく」が「ぼく」であることを疑わせる。「ぼく」の中にはあらゆる「ぼく」があって、それがときどき顔を出して「ぼく」を困惑させる。
 谷川俊太郎は「あなたの手のぬくみ」に「いのち」を見出し、川崎洋は、その「手」に「そっと息を吹きかける」ことで「ウソではないこと」を確かめたが、「ぼく」が「ぼく」であることをめぐる思索は、これからもまだまだ続いていくのだろう。
 最後に「cube」と「モード」より、「ぼく」という言葉が入っていない歌を一首ずつ挙げて終わりにする。

・音楽にあふれて歩む鴨川の、ようやく気持ちが追いついてくる
・お金もらってうれしい真昼 バファリンでお酒を飲む 風景が体になじむ

(山下翔)
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鬼藤千春の小説 | URL | 2014/08/19/Tue 10:23 [編集]

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